「小牧長久手の戦い」家康が秀吉と対立深めた真意 信長の次男と秀吉の関係もどんどん悪化する

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これまで秀吉軍に押されていた織田・徳川軍だが、羽黒での勝利により、持ち直す。

家康は小牧山(小牧市)に陣を置いた(3月28日)。秀吉は、楽田(犬山市)に布陣。この時、一説(『当代記』)によると、織田・徳川軍が約1万6000、秀吉軍が10万人だったという。しかし、秀吉軍10万というのは大げさであり、実際は約6万だったのではないかとする説もある。6万だったとしても、大きな兵力差があったことには違いない。

秀吉軍は高い土手を築き、その中に陣を置いたというが、家康は小牧山に柵は巡らさず、無防備だったと言われる(『三河物語』)。ところが、家康軍は敵の土手まで何度も繰り出し、敵を翻弄したという。

秀吉は小牧山を力攻めにはしなかった。大軍勢を擁しているとは言え、犠牲が増えることをよしとしなかったのだろう。そうではなく、小牧山から家康の軍勢の一部を三河に出させて、そこを突く作戦に出る。

秀吉軍が家康の領国の三河に侵攻すれば、家康も軍勢を割かざるをえないだろう。

三河侵攻を買って出たのが、池田恒興と森長可であった。羽黒の戦いでの敗戦を受けて、名誉を挽回しようとしたのだ。

秀吉は、池田・森、甥の三好秀次(後の豊臣秀次)を大将とする2万5000の大軍を三河に向かわす(4月6日)。

秀吉軍の行動をつかんでいた家康

しかし、家康は秀吉軍の行動をつかんでいた。『徳川実紀』には「郷民」が家康にそのことを知らせたという。2万を超える大軍勢の動きは把握しやすかったのだろう。家康は、酒井忠次・石川数正・本多忠勝らを小牧山に残し、自らは、小幡城(名古屋市)に入る(4月8日)。そして翌日、榊原康政・大須賀康高らに三好秀次の軍勢を奇襲させた。

不意を突かれた三好軍は敗退。激戦のなかで、池田恒興・森長可は討死する。この時の三好軍の死傷者は7000人〜1万人とも言われる(3000人との説もあり)。

このことは、秀吉にとっても大きな衝撃だった。敗戦を受けて秀吉は、竜泉寺(愛知県名古屋市守山区)に出陣するが、すでに家康軍の姿はなかった。戦を終えて、家康は小牧山に帰還していたのだ。

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