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「小牧長久手の戦い」家康が秀吉と対立深めた真意 信長の次男と秀吉の関係もどんどん悪化する

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その後、秀吉、家康軍の主力がぶつかることはなかった。秀吉は矛先を岐阜に向け、加賀野井城(羽島市)や竹鼻城(同)など織田方の城を、それぞれ5月上旬、6月上旬に攻略している。この岐阜の諸城の攻撃も、家康の軍勢を小牧山から引きずり出し、討ち取るための秀吉の戦略だった。しかし、家康は秀吉の挑発には乗らず、動くことはなかった。

6月12日、家康は小牧山の守りを酒井忠次に任せ、清洲城に入る。そして、羽柴方の滝川一益がこもる蟹江城(愛知県蟹江町)を攻め、これを落とすのである(7月3日)。

8月中旬、秀吉は再度、尾張に向けて軍勢を進め、徳川勢と干戈を交えることはあったが、戦の決着がつくことはなかった。長期化の様相を呈し始めた戦であるが、9月には講和の動きが見られる。

一度交渉決裂したものの…

同月7日にいったん交渉は決裂したものの、秀吉軍の攻勢を受け、桑名まで進攻されていた織田信雄は、11月12日に和議に応じる。織田信雄側は、人質を差し出し、南伊勢と伊賀国を割譲させられた。織田信雄は秀吉に敗北したのである。

これを受けて、家康は岡崎に戻る(11月16日)。これにて、約8カ月にわたる小牧・長久手の戦いは終わった。家康も12月には、秀吉の人質として、次男の於義伊(結城秀康)を差し出している。このことを見ても、最終的な戦の勝者は、秀吉であったと言えよう。

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