「小牧長久手の戦い」家康が秀吉と対立深めた真意 信長の次男と秀吉の関係もどんどん悪化する

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信雄は誼があった信長の子であり、見放すことはできないと思ったのだろうか。また、たんにそれだけではなく、この頃、関東・信濃の状況にも秀吉は関与し始めており、家康としてはそれを食い止めたいという狙いもあったのかもしれない。

そのような思惑はあったとは言え、家康は秀吉とどうしても戦をしなければならない理由はなかった。前提として、織田信雄と秀吉の対立があり、織田信雄の要請を受けて、家康は秀吉との戦に踏み切った、とみることができる。家康は同盟を結んでいた小田原の北条氏直に対しても、「秀吉がほしいままに振る舞うので、秀吉を討つために、織田信雄と出馬した」と伝えている。

天正12年2月、家康は酒井重忠を尾張国に派遣し、織田信雄と会談させた。翌月6日、津川雄光・岡田重孝・浅井長時の親秀吉派の三重臣を伊勢長島城(三重県桑名市)で殺害した織田信雄。これは、秀吉への宣戦布告に等しいものだった。

3月7日、家康は浜松を出陣し、三河岡崎城に入った。かなり素早い対応であり、織田信雄との事前の相談もあってのことだろう。同月13日、家康は尾張国清洲城に入り、織田信雄と対面する。『徳川実紀』によると、織田信雄は家康の来訪を喜び、涙を流し、感謝したという。

信雄と家康の動きを見て、秀吉も行動に出る

一方、秀吉は、織田信雄と家康の動きを見て、3月10日に大坂を立ち、京都に入る。そこで軍勢を集結させ、織田信雄討伐のため、伊勢・尾張方面に出撃するのである(織田信雄は、尾張・伊勢・伊賀を有していた)。

秀吉軍は優勢で、伊賀はほどなく、攻略される。さらに秀吉方の武将・池田恒興と森長可は尾張国へ出陣する。彼らは3月13日には、犬山城(愛知県犬山市)を攻め落とす。

犬山城は無防備で、1日で落城してしまった。池田恒興は織田家の重臣であり、その母・養徳院は信長の乳母であったため、織田信雄は池田恒興が自らに従うことを期待していたが、その願いは脆くも崩れ去る。

一方で家康は、酒井忠次らの軍勢を伊勢方面に派遣していたが、一部を尾張国に回す。そして、3月17日、羽黒(犬山市)で、酒井忠次の軍勢と森長可軍がぶつかり、酒井軍が勝利した。

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