葛飾北斎「桶屋の富士」実は富士山ではなかったか 「山の百変化」とでも呼ぶべき描画のパターン
2人の人物が山間の吊り橋をまるで曲芸師のように渡る様子を描いた「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」もまた、北斎の半端ではない造形力の産物だ。山を歩けば橋はたくさんあったはずだ。
とはいえ、手すりもなく人間が載ると大きくたわんだこのような橋が実際にあったとは思えない。だからこそ、この絵には凝視させる力がある。迫真性を伴いながらも鑑賞者の心を揺るがす空想力と、北斎ならではのすぐれたデザイン力が、この絵には同居している。山は北斎の空想を大きく羽ばたかせる空間でもあったのだ。
「冨嶽三十六景」の意外な解釈
さて、ここまで見て北斎の山岳描写がいかにすぐれているかがわかったのではないかと思うのだが、「冨嶽三十六景」シリーズの中で意外な解釈に出会ったのでお伝えしたい。
富士山を遠望する手前に職人が桶作りをする様子を大きく描いた「尾州不二見原」、通称「桶屋の富士」に配されている山が実は富士山ではない、というのである。この作品は、富士山が桶の枠のはるかかなたに極めて小さく描かれているところに、北斎の卓越した機知を感じる。
一方、この「不二見原」という場所は現在の名古屋市中区富士見町と考えられており、そこに立っても150キロ以上先にある富士山は見えないことが、1970年以降の調査で明らかにされているという。富士山に似た形の南アルプスの聖岳を富士山と誤認したのではないかというのだ。北斎はこの地域を実際に訪れたことがあるそうだが、誤認の可能性はやはり捨てきれない。
その説が正しいとすれば、そもそも「不二見原」という地名に誤認の素があったのかもしれない。しかし、勘違いで描いたとしても、北斎には富士山の姿をかすかに見える形で描き出すこと自体に意義を見つけていたと考えたい。
北斎は、「形」の宝庫である山とさまざまな視点で向き合い、表現のバリュエーションを思う存分楽しみながら多くの絵画制作に没頭したのではないだろうか。
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