70歳「人生1勝9敗」の私が野球少年に見た覚悟 小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』第1話(6)

✎ 1〜 ✎ 5 ✎ 6 ✎ 7 ✎ 8
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

観客席からは見慣れていたマウンドだが、立つのは初めてだった。思ったより高さがある。バッターボックスの周くんが、さらに小さく見えた。とにかく真ん中に。それだけを意識してボールを放った。

勢いのないボールが、バットにかすることなく、グラブへ収まった。私でさえ、まったく打たれる気がしない。しかし周くんは、丁寧にグリップを確かめ、「次、お願いします」とバットを構える。

「なんで、そんなにがんばるんですか」

私は言葉を投げかけた。

周くんはバットを握ったまま身を固くする。

「努力したって、無駄になるだけでしょう」

昼間は大声が飛び交っていたグラウンドに沈黙が流れる。才能もなく、試合に出られる希望もない。身の程をわきまえない努力は、惨めさを生むだけだ。

彼は構えたバットをゆっくり下ろした。顔を上げ、私の目をまっすぐに見る。

「父さんと約束したんです。『笑われても、歩いてでも、走れ』って」

「なんですか、それは?」

「口癖です。父さんの」周くんの目に力が宿る。「速く走れるかは人によって違う。でも走るかどうかは自分次第。だから、笑われても、歩いてでも、走れ」

──走るかどうかは自分次第。

みぞおちが圧迫されるように、息が詰まる。

「くわー。痺れるぜ」板垣が唸る。「オヤジは教師に転職すべきだな」

「どうかな。今の仕事好きみたいだし」

周くんは自分が褒められたかのように、照れた様子で頭をかいた。

「父さんは、きっと今日も走ってるから。僕だけが約束を破るわけにはいかないんだ」

強く、芯の通った声だった。

もう一度、周くんがバットを構える。

私はボールを投げた。なおも走ろうとする彼を止める権利など、私にはない。

バットは勢いよく空を切る。

それでも彼は懸命にバットを振りつづけ、私は応えるようにボールを投げた。

「おまえが生きてる証拠だな」

「ありがとうございました。僕、トンボがけしてから帰るんで」

練習が終わり、周くんは用具倉庫に向かう。

「一人でグラウンド整備するんですか」

この広さだ、ずいぶん時間がかかるだろう。

「周、抜け駆けはよくないぞ」

板垣は周くんの後を追って用具倉庫に向かう。

「鋏は置いたけど、トンボはまだ置いてないよ」

宮瀬も軽やかなステップを踏み、板垣の後に続く。

途中、ダッシュで使っていた白線の横で、板垣が立ち止まった。

「周、ダッシュ、一番端っこでやってたよな」

「そうですけど」

おかげで、死ぬのが楽しみになった
『おかげで、死ぬのが楽しみになった』(サンマーク出版)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

「きつかったか?」

「死にそうでした」

「死にそうだったってことは、おまえが生きてる証拠だな」

「なにを当たり前のこと」

私が横槍を入れても、板垣は「まあな」と含み笑いを返すだけだった。

四人で一列になりトンボを引く。地面に刻まれたスパイクの跡が、綺麗に均されていく。流れた汗や努力はリセットされ、全てなかったことになる。

隣では、板垣が「下を向いて歩こう。涙がこぼれて何が悪い」とあの名曲への逆上ソングを口ずさんでいる。先ほどから妙に機嫌がいい。

トンボをかけ終わり、グラウンドを出た。本日の業務はすべて終了しましたと言わんばかりに、太陽が粛々と沈んでいく。

(7月20日配信の次回に続く)

遠未 真幸 小説家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

とおみ まさき / Masaki Tomi

1982年、埼玉県生まれ。失われた世代であり、はざま世代であり、プレッシャー世代でもある。ミュージシャン、プロの応援団員、舞台やイベントの構成作家を経て、様々な創作に携わる中で、物語の持つ力に惹かれていく。『小説新潮』に寄稿するなど経験を積み、本作を6年半かけて書き上げ、小説家デビュー。「AかBかではなく、AもあればBもある」がモットーのバランス派。いつもの道を散歩するのが好きで、ダジャレと韻をこよなく愛す。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事