観客席からは見慣れていたマウンドだが、立つのは初めてだった。思ったより高さがある。バッターボックスの周くんが、さらに小さく見えた。とにかく真ん中に。それだけを意識してボールを放った。
勢いのないボールが、バットにかすることなく、グラブへ収まった。私でさえ、まったく打たれる気がしない。しかし周くんは、丁寧にグリップを確かめ、「次、お願いします」とバットを構える。
「なんで、そんなにがんばるんですか」
私は言葉を投げかけた。
周くんはバットを握ったまま身を固くする。
「努力したって、無駄になるだけでしょう」
昼間は大声が飛び交っていたグラウンドに沈黙が流れる。才能もなく、試合に出られる希望もない。身の程をわきまえない努力は、惨めさを生むだけだ。
彼は構えたバットをゆっくり下ろした。顔を上げ、私の目をまっすぐに見る。
「父さんと約束したんです。『笑われても、歩いてでも、走れ』って」
「なんですか、それは?」
「口癖です。父さんの」周くんの目に力が宿る。「速く走れるかは人によって違う。でも走るかどうかは自分次第。だから、笑われても、歩いてでも、走れ」
──走るかどうかは自分次第。
みぞおちが圧迫されるように、息が詰まる。
「くわー。痺れるぜ」板垣が唸る。「オヤジは教師に転職すべきだな」
「どうかな。今の仕事好きみたいだし」
周くんは自分が褒められたかのように、照れた様子で頭をかいた。
「父さんは、きっと今日も走ってるから。僕だけが約束を破るわけにはいかないんだ」
強く、芯の通った声だった。
もう一度、周くんがバットを構える。
私はボールを投げた。なおも走ろうとする彼を止める権利など、私にはない。
バットは勢いよく空を切る。
それでも彼は懸命にバットを振りつづけ、私は応えるようにボールを投げた。
「おまえが生きてる証拠だな」
「ありがとうございました。僕、トンボがけしてから帰るんで」
練習が終わり、周くんは用具倉庫に向かう。
「一人でグラウンド整備するんですか」
この広さだ、ずいぶん時間がかかるだろう。
「周、抜け駆けはよくないぞ」
板垣は周くんの後を追って用具倉庫に向かう。
「鋏は置いたけど、トンボはまだ置いてないよ」
宮瀬も軽やかなステップを踏み、板垣の後に続く。
途中、ダッシュで使っていた白線の横で、板垣が立ち止まった。
「周、ダッシュ、一番端っこでやってたよな」
「そうですけど」
「きつかったか?」
「死にそうでした」
「死にそうだったってことは、おまえが生きてる証拠だな」
「なにを当たり前のこと」
私が横槍を入れても、板垣は「まあな」と含み笑いを返すだけだった。
四人で一列になりトンボを引く。地面に刻まれたスパイクの跡が、綺麗に均されていく。流れた汗や努力はリセットされ、全てなかったことになる。
隣では、板垣が「下を向いて歩こう。涙がこぼれて何が悪い」とあの名曲への逆上ソングを口ずさんでいる。先ほどから妙に機嫌がいい。
トンボをかけ終わり、グラウンドを出た。本日の業務はすべて終了しましたと言わんばかりに、太陽が粛々と沈んでいく。
(7月20日配信の次回に続く)
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