70歳「人生1勝9敗」の私が野球少年に見た覚悟 小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』第1話(6)

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「練習の締めにダッシュ50本とは、えげつないね」

宮瀬の眉間に綺麗な縦皺が寄った。

「自分はゆったりブレイクタイムかよ」

監督はベンチに座り、ドリンクを片手にコーチと談笑していた。

「最後までちゃんと見てやれよな。指導者失格だぞ」

板垣のこめかみに血管が浮き出る。元教師としては許せないようだ。

疲れがピークに達しているのか、選手たちの顔は歪み、足取りも重い。監督が見ていないのが、救いにも思えた。

満身創痍のダッシュが続く中、一人が明らかに遅れていた。周くんだ。一本目からまわりについていけず、どんどん離されていく。

談笑を終えた監督が、ベンチから立ち上がった。ふらふらと走る周くんを見つけると、「榎木、手を抜くな」と一喝する。しかしペースは落ちる一方だ。監督は呆れたように冷たい視線を送る。私は心の中で、「限界までがんばったところで、どうせ追いつけない。ほどほどでやり過ごせ」と周くんにエールを送った。

他の選手からかなり遅れて、周くんは50本を走り終えた。最後の一往復は、歩いていると言った方がいいくらいだった。

青白い顔で倒れ込む周くんを、チームメイトがあざ笑う。

「アフレコするなら、『ちんたら走ってたくせに、苦しそうな顔するなよ』ってとこね」

宮瀬の声に彼らへの嫌悪感がにじむ。

「周くんは野球を諦めた方がいい。彼とチーム、お互いのためだ」

「本当にそう思ってる?」と宮瀬が顔を覗き込んでくる。

私は黙ってグラウンドを眺めつづけた。

「杖をついてちゃ無理だろうよ」

ようやく練習が終わり、少年たちが球場を後にする。私たちも帰ろうとしたが、グラウンドの隅に人影を見つけた。近づくと、周くんがスパイクの紐を結び直していた。

「何をしてるんですか」

思わず声をかける。彼の目に警戒の色が浮かんだ。近くで見ると、その顔はより幼く、頼りなさを感じた。

すると板垣が、周くんの前に一歩出て、「俺らは」と名乗りを上げた。

「全ホモ・サピエンスにエールを送る応援団。その名も──シャイニング!」

警戒が恐怖に塗り替わる。無理もない。シャイニングと名乗る、怪しい高齢者に囲まれたのだ。

「練習は終わったんじゃないの?」

宮瀬がフォローする。

周くんは戸惑いながらも、「少しだけ残ってやろうかと」と答えた。

「もう5時半だよ。ご両親が心配するでしょ」

「母さんはまだ仕事だし、父さんは一緒に暮らしてないんで」

周くんの顔に暗い影が落ちた。

「そっか……」

「もう練習やってもいいですか」

地面のバットを拾う彼からは、特別な気概は感じない。居残り自主練は、日課のようなものなのだろう。

「バッティング練習、俺らが付き合ってやろうか?」板垣が言った。

「いいんですか!」

予想外の即答が返ってくる。猫の手ならぬ、老人の手も借りたかったらしい。

「俺が投げてやる」

「杖をついてちゃ無理だろうよ」

私は板垣の代わりにボールを受け取る。

「僕、キャッチャー」

宮瀬が周くんのグラブを拾う。

「それ、キャッチャー用のミットじゃないんですけど、大丈夫ですか?」

「もう鋏は置いたからね。手を痛めたって大丈夫さ」

球審の位置に入った板垣が、「引間の球なんか、ミットもなくたってへっちゃらだっての」と顔の右半分だけを歪めて笑った。ピッチャー交代を根に持っているのか。高校時代に「歩くアルファルファ」と言われた怒りの根深さも、健在のようだ。

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