――安倍首相は村山談話や河野談話を“全体として”継承すると言う。どういう意味があるのだろうか。
それは戦争責任や謝罪という問題について安倍首相の立場をぼやかすために編み出されたフレーズだ。
意図的かつ曖昧なフレーズであり、村山談話で使われている“侵略”とか“お詫び”とかの言葉を使うかどうか、また、河野談話にある“慰安婦”の強制連行を認めるかどうか、そういう明言、再認識を何とか避けようとしている。
――戦後70年を節目として8月15日に予定される“安倍談話”はどのようなものになると思うか。
国際的な(特に米国の)世論を刺激しないようにするのと、戦争について直接謝罪をすることを避けるために、安倍首相は2つの「言葉の戦略」を使うのではないか。
ひとつは戦争の記憶として、彼自身の個人的な苦痛体験を語る。キャンベラ演説を含めて安倍首相の最近の演説においては、自分自身の記憶のなかにある悲しみと心痛を表現している。これらの表現よって、安倍首相は思いやりのある人物だという印象が世界に伝わり、同時に歴史的責任という妄想からも解放される。
「remorse」と「反省」の違い
もうひとつは、日本語では“反省”という言葉を使う。それは英語では“remorse”と翻訳される。英語の”remorse”という言葉は日本語の“反省”より強い意味がある。日本語では“後悔”とか“自責の念”という言葉が普通使われる。村山談話や小泉談話では、“反省”とい言葉は英語では“remorse”と訳されたが、そのすぐ後に“お詫びの気持ち”という表現が付け加えられた。
もし安倍首相が“反省”という言葉(英語で“remorse”と訳される)を使いながら、“お詫び”という言葉を使わなければ、どうなるか。英語を話す人たちには“謝罪”として伝わるが、日本語、中国語、韓国語で読む人たちには、単なる反省だけで“お詫び”はないということになる。
――村山談話にある侵略、植民地支配、国策を誤り、という言葉を安倍首相が使わなかったとしたら、韓国はどう反応するだろうか。
私は、戦後70年の安倍談話のインパクトについて非常に心配している。彼が「言葉の戦略」を使うとすれば、韓国や中国の多くの人々の苦痛の記憶を癒すことにならないだけでなく、東アジア諸国や英語を話す世界の人々の誤解を広げることにもなる。
“remorse”という言葉を聞いた米国人は、安倍首相は謝罪の意を表明したと思うだろうが、彼らは中国人や韓国人がなぜ不満なのか理解できないだろう。
要するに、私が心配しているのは、安倍首相と側近の人たちが言葉のゲームによって、英語を話す世界にはひとつのメッセージを伝え、他方で東アジア諸国にはもうひとつのメッセージを伝えることだ。日本自身もそ東アジア諸国のグループに属する。
太平洋戦争の酷い出来事は、言葉のゲームではなく、誠意、正直、率直によって思い起こされるべきである。
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