冷淡に見えて熱い「森鴎外」文壇の権威へ衝撃発言 超エリートで「教養あふれる近代人」を自負

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シエクスピイヤがバイロン、スヰフトより大なるは彼は理想なく、此はおのが理想をあらはせばなり。「ドラマ」の小説より全きは、彼は理想なく、此は作者の理想を含みたればなり。作者能く理想なきに至るときは、人に神の如くにもおもはれ、聖人の如くにもおもはれ、至人の如くにもおもはるべし。
近松も沒理想なり。彼も境遇次第にては、たとひシエクスピイヤには及ばずとするも、我國の淨瑠璃作者にて終らむよりははるかに優りたる位地に上りぬらむ。「キング、リヤア」の悲劇は馬琴の作に似て勸懲の旨意いと著く見えたれども、作者みづからが評論の詞、絶えて篇中になきゆゑ、見るものゝ理想次第にて強ち勸懲の作と見做すを要せず、別に解釋を加ふること自在なり。
然るに曲亭の作を見れば、例へば蟇六(がまろく)夫婦の性格の如き、頗る自然に似て活動したれども、作者叙事の間にて明(あきらか)に勸懲の旨なりといへれば、人も亦これを沒理想と評すること能はずと。
夫れ造化既に沒理想なり、作者と詩と皆沒理想になりたれば、逍遙子が沒理想の時文評論を作れるも宜(むべ)なり。世の批評家はおほしといへども、逍遙子がこたびの大議論を聞きては、皆口をつぐんで物言はず。偶々物言ふ人ありといへども、唯賞讃のこと葉を重ねて、眞價を秤らむとするに至らず。
(『柵草紙の山房論文』「森鴎外全集第七卷」筑摩書房、初出1891年)

つまりは「えっ、シェイクスピアや、バイロンや、スウィフトみたいな、欧米の文学者たちもそんな理想なしに文学を書くなんてありえなくない!? 文学には作者の理想が入り込むもんじゃない!? 理想のない文学なんて、神が書いた文学みたいなもんじゃない!?」

「坪内逍遥の没理想論ってみんな何も言わなくない!? 賞賛しか言葉を重ねてなくて、この姿勢の真価を問うてなくない!?」と森鴎外は逍遥の議論に対して大いなる批判を寄せているのだった。

海外の情勢や文学に詳しかった森鴎外

引用の最後に載せた「偶々物言ふ人ありといへども、唯賞讃のこと葉を重ねて、眞價を秤らむとするに至らず」なんて、すごい物言いである。「物言う人はいっぱいいても、賞賛しか言わず、真価をはかろうとしている人は誰もいない」……なんだか鴎外はよっぽど逍遥の宣言にいらだったのだなと察してしまう一文である。

それもそのはずで、森鴎外は誰よりも海外情勢や海外文学に詳しい人間だった。ドイツに留学したエリートであった彼は、この後、雑誌『スバル』にて海外情勢や海外の文学、芸術についていち早く情報を届ける連載「椋鳥通信」を連載していた。

ドイツの新聞「ベルリナー・ターゲブラット」の記事を鴎外が読み、その文化面から日本に紹介すべきだと思う記事を、自身の見解を盛り込みつつ翻訳し、掲載する。――今考えたらすごい連載である。

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