やたらと「論破!」と言う子に伝えたい"大切な事" 勝つと何が得られ、負けると何が終わりなのか

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それは、基本的には議論というものとあまり関係がない出来事だ。理屈と理屈を競わせて、どちらの方が論理的に相手の主張の妥当性(なるほどと思える性格)を上回る物言いになっているかをぶつけ合う競技を「ディベート」と呼ぶ。これは、外国、とりわけアメリカの教室でトレーニングのように行われるものだ。

ディベートには、あくまでも自分の理屈を説得的にするための技術を鍛えるという目的があるから、ゲームのような発想が必要で、そのために自分の気持ちとは逆の立場にチームを入れ替えて競い合うようなこともなされる。あくまでも技法の熟練のためだ。

そういうトレーニングを僕は否定しないし、実際に大学1年生の少人数教室でかつて「電車の中での化粧は許されるか否か?」というディベートをしてみたことがあった。熱く主張した直後に、「はい! 反対と賛成を入れ替えてもう一度やってみよう!」と言った時の学生の戸惑う顔はおもしろい。

「いや、先生! 無理っすよ。心にもないことは言えないです!」と苦しそうに言うので、「心にもないことを、あたかも正しいことだと、冷徹に言えるようになる訓練だからやってね」と説明した。けっこうできる。

でもこれは、技術のトレーニングだ。その土台には、「そもそもどうして話し合いなどするのか?」というものがあって、そこに先ほど言った自分と他者と言葉への信頼が存在しないなら、テクニックはあるけどハートがないロボットが目的のない勝敗決めをしているだけになる。

臆病なやりとりを格好よく言い換えただけ

勝つ? 何に勝つのか? 勝つと何が得られるのか? 

負ける? 負けると何を失うのか? 負けると終わりなのか? 何が?

教室を生きのびる政治学 (犀の教室 Liberal Arts Lab)
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そろそろわかってくれたと思う。 論破力とは、言い方や雰囲気を通じて相手を嫌な気持ちにさせて、自分が変わろうとする勇気を封じ込めてしまうとても臆病なやりとりを、格好よく言い換えたものにすぎない。

でも僕は、この言葉を不適切に使う人たちを決して責めたくはない。論破力という言葉は、心が苦しいと感じている、自分と同じ、勇気が少し足りない人間が頼りにする(だからこそ)「強い言葉」だからだ。

でも、本当に強い者には、強い言葉は必要ない。「はい、論破!」と言って、苦しい気持ちの誰かが、何かを守っている。責めてはいけない。彼・彼女らを守ってやらねばならない。

岡田 憲治 政治学者/専修大学法学部教授

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おかだ けんじ / Kenji Okada

政治学者、専修大学法学部教授。1962年東京生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了(政治学博士)。専攻は現代デモクラシー論。本業・副業・地域支援・NPO運営・家事・育児の最中、とてつもないことが淡々と毎日起こっている21世紀を「一身にして二生を経る」心持ちで生きのびる。愛称オカケン。広島カープをこよなく愛する2児の父。著書に『教室を生きのびる政治学』(晶文社)、『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)、『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『言葉が足りないとサルになる』(亜紀書房)、共著に『転換期を生きるきみたちへ』(内田樹編、晶文社)など多数。

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