電電公社を辞めKDDIを創った男に見えていた本質 「安定」から飛び出してこそチャンスをつかめる

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あの変革期に真藤氏が総裁にならなければ、また、氏の進取的な洞察力に富んだ民営化論に刺激を受けなければ、「競争相手をつくろう」という私の野心的な意思や意図は胸の底にしまわれたままであったでしょう。

同じように、氏の「黙認」を得られなかったのなら、やはり私は新しい通信会社の設立には躊躇したまま踏みきれなかったかもしれません。

そういう意味でも、真藤恒氏という人物は、それまでとは異なる新しく広い人生に向けて私の背中を押してくれた恩人ともいうべき人でした。

真藤氏は、私たちが第二電電を創業したのち、ある困難に直面したときにも、競争相手という垣根を越えて、さりげなく助け舟を出してくれました。

私が人生においてコペルニクス的大転換をするにあたって、静かにあたたかく背中を押してくださったのが真藤氏だったのです。

飛行機の中での「ゲリラ的直談判」によって電電公社総裁の真藤氏の言質を得たその翌日、私は20年近く勤めた電電公社に辞表を提出しました。

こうして私は、定年まで勤めれば生涯安泰といわれていた当時の巨大企業だった電電公社を飛び出し、第二電電の設立に向けて、新しい出発をすることになったのです。

健全な競争のためにライバル会社の必要性を説く

その当時、わが国の通信業界を取りまく状況は大きな変革期にありました。

1980年代の初頭、中曽根康弘政権は行財政改革を主目的とする臨時行政調査会を設置。朝食のおかずはいつもメザシだというエピソードでその質素で堅実な人柄が広く知られていた土光敏夫さんが会長を務めた、いわゆる土光臨調です。

ここで提言されたのが日本国有鉄道(国鉄)、日本専売公社、そして日本電信電話公社の三公社の民営化でした。

これを受けて、私の所属していた電電公社内部にも改革への胎動が兆して、通信業界全体に自由化の波が押し寄せる時代が幕を開けたのです。

この黎明期に、公社の内部改革のリーダーシップをとり、あわせて公社民営化の必要性をしきりに説いておられたのが、当時総裁の座にあった、真藤氏でした。

その企業体質を官業に特有の尊大な「殿様商売」から、お客様重視の経営へと変えるべく腕を振るっていたのです。

当時の通信業界は電電公社による一社独占の市場であり、少しも競争原理が働かないいびつな状態にありました。競争がない市場というのは流れのないよどんだ貯水池のようなもので、そこにはいろいろな弊害が生まれてきます。そのあおりを受けるのはいつもユーザーです。

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