実は信長に強気?姉川の戦いに見た家康の頑固さ 懇願する信長に対し、一歩も引かなかった家康

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徳川家康像(写真:内蔵助 /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』では、織田信長(演・岡田准一さん)が徳川家康(演・松本潤さん)に対し「上から目線」で接し、家康がそれにタジタジとなる場面が何度か描かれている。家康は信長に「へいこら」するような武将であったのだろうか?

永禄13年(1570年)は、4月に改元され、元亀元年となった。この年の3月、徳川家康は織田信長に従い、上洛している。

信長は、家康や北畠具教・姉小路嗣頼らに「宮中の修理、武家の御用、そのほか、天下の静謐」のために上洛を求めてきたのだ。

家康が一時的に東海地方を離れる

家康にとって初めての京都、彼は都を見て何を感じたであろうか。家康が東海地方を一時的とは言え、離れたということは、同地方の情勢がある程度は落ち着いていたことを示すものであろう。

4月14日、信長は都で、将軍・足利義昭の邸宅の修築が終了したとして、観能会を開いている。観世大夫と金春大夫が「張良」「松風」などを舞う。その会には、公家や飛騨国司・姉小路氏、伊勢国司・北畠氏、三好義継、松永久秀ら諸将に交り、家康の姿もあった(『信長公記』)。

将軍・義昭は観能の席で、信長に対し「官位を与えよう」と言ったようだが、信長はこれを辞退したという。

束の間の平穏の日々、しかし、それはすぐに破られる。同年4月20日、信長が越前国(今の福井県)の朝倉義景を討つために出兵したのだ。

『三河物語』には越前攻めについて「信長は金ヶ崎城を攻められた。越前の人々は強かったので、信長もこれは難しいとお思いになり、家康を前線に残したまま、なんの連絡もなく、宵のうちに退却した」と記されているので、家康も従軍していたようだ。

次ページ当初は順調だった越前攻め
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