東急の祖「五島慶太」は本当に“強盗"だったのか 創立100年で見直される「乗っ取り王」真の姿
その後の一連の会社買収による事業拡張により、五島には「乗っ取り王」「強盗慶太」の異名がつけられた。その「強盗慶太」の名がいよいよ轟いたのが、いわゆる「地下鉄騒動」においてである。あらましは以下のとおりだ。
日本の地下鉄の嚆矢は、1927年に東京地下鉄道によって開業した上野―浅草間約2.2km(後に新橋まで延伸。現・銀座線の一部)だ。東京地下鉄道の創業者の早川徳次は、東武鉄道の根津嘉一郎に見出されて鉄道事業に関わるようになった人物で、欧州視察の折に目の当たりにしたロンドン地下鉄に衝撃を受け、東京での地下鉄建設を一念発起した。
この東京地下鉄道開業に刺激を受けた一部の企業家らにより、1934年に設立されたのが東京高速鉄道だ。同社は、渋谷―赤坂見附―虎ノ門―新橋間(現・銀座線の一部)などの路線免許を東京市から譲り受けたが、肝心の資金が集まらなかった。
そこで、保険業界の長老である第一生命の矢野恒太に相談したところ、目蒲電鉄社長も務めた矢野は、五島が事業に参加するのであれば助力しようといい、これを機に五島は東京高速鉄道に関わり、会社創設後は主導権を握っていく。
単なる「乗っ取り王」ではない
その後、東京地下鉄道と東京高速鉄道の2社は、新橋―虎ノ門間の地下鉄敷設権を巡って争うなど、ことごとく対立するようになる。とくに大きな問題になったのが、新橋駅での両社の乗り入れに関する争いだった。両社のレールを直結し、渋谷―浅草間の直通運転を行うべきと主張した五島に対し、早川はホームを並べて造り、乗客に乗り換えさせるべきと主張し、相譲らなかった。
そこで根津嘉一郎、小林一三の仲介でいったんはレール直結、相互直通運転の協定が結ばれたものの、早川は京浜電気鉄道(現・京急電鉄)と相談し、新橋―品川間に新たに地下鉄(京浜地下鉄道)を建設し、これを介して浦賀―浅草間の直通運転を行うことを画策。同時に「東京高速は東京地下鉄内に入ることを当然遠慮して、全部新橋から引返すべきものなりと陳情して廻った」(『五島慶太伝』)。
こうした早川の動きに対し、五島は外堀を埋めるべく京浜電気鉄道株を買い進め、さらに東京地下鉄道の大株主からの持ち株買取りにも成功し、東京地下鉄道の支配権を得るに至る。
この騒動に対する世間の評価は、早川に同情的だった。難工事や関東大震災の影響など、苦心惨憺の末に産み落とした地下鉄会社を”乗っ取り王”から守ろうとしたということである。
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