東急の祖「五島慶太」は本当に“強盗"だったのか 創立100年で見直される「乗っ取り王」真の姿

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目蒲電鉄は、財界の重鎮・渋沢栄一の最晩年の仕事である田園都市会社(郊外における理想的なまちづくりを行う)に端を発する鉄道会社だ。田園調布などの高級住宅地を開発した田園都市会社が、当時は辺鄙だったこのエリアの交通の便を図るために、今日の目黒線と大井町線に相当する鉄道の建設を計画。この田園都市会社の鉄道部門を分離し、武蔵から譲り受けた蒲田支線を加えて、1922年9月に目蒲電鉄は発足した。

目黒蒲田電鉄デハ1形
目黒線(のちに目蒲線に改称)開通当時のデハ1形電車。後のモハ1形(写真:東急提供)

その翌年、1923年9月に関東大震災が発生するが、「田園都市の事業地は最小限度の被害に食い止めることができ、その安全性が高い関心を集めて、市街地から郊外への人口移動を加速させることになった」(100年史)。こうした追い風もあり、目蒲電鉄と田園都市会社の両社には資金的な余裕が生まれる。五島はこの資金で武蔵電鉄株の過半を取得し、目蒲電鉄・田園都市両社の経営者と大株主の後援を得て、依然として鉄道建設に着手できず、倒産寸前だった武蔵電鉄の再建に着手する。

そして1924年10月、郷誠之助以下、武蔵電鉄の全役員が退陣。代わって目蒲電鉄の役員が武蔵電鉄の役員に就任し、五島は専務に就任した。武蔵電鉄は目蒲電鉄の傘下に入り、社名も東京横浜電鉄に変更となった。

「強盗」の本領発揮?買収の真実

さて、この武蔵電鉄買収の経緯について50年史を見ると、「武蔵電気鉄道内部においても、ほとんどの役員が目黒蒲田電鉄系の資本による同社の再建に賛同」していたとしつつ、続けて『五島慶太伝』の記述をもとに次のように記している。

「五島慶太は同社の常務でありながら、会長である郷誠之助には相談せず、事後承諾で話をつけたという」

これだけを読めば、五島が郷の”寝首をかいた”と見られ、「強盗慶太」の本領発揮と思われるかもしれない。しかし、『五島慶太伝』は、役員交代について報告に訪れた五島に対し、郷が以下のように語ったと続けている。

「『それは賢明な策である。結構だ。しかし、君はこの郷誠之助を見離したということだな』と、一言寂しそうに言われた」

また、五島は郷と事業的には袂を分かったが、「その人柄には敬服していたらしく、その後もしばしば教えを受けていたらしい」(『五島慶太伝』)。ここまで読めば、2人の関係性についての印象は、ずいぶんと異なってくる。

さらに、100年史には当時の政治的背景も含め、以下の視点も盛り込まれた。

「当時は、”我田引鉄”の言葉で知られるように鉄道免許を乱発する政友会系と、これに反する憲政会系が交互に政権を担当していた時代。1924年6月には憲政会系の加藤高明内閣が成立し、鉄道省の監督方針も変わった。これにより一部路線の免許が工事未着手を理由に失効し、他路線についても予断を許さない状況になるなど、武蔵電鉄は存亡の危機に陥った。五島の迅速な対応は、こうした危機から会社や事業を救うための動きだったことも見逃せない」(竹内氏)

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