東急の祖「五島慶太」は本当に“強盗"だったのか 創立100年で見直される「乗っ取り王」真の姿

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五島慶太の業績をまとめた書物としては、50年史もたびたび引用している『五島慶太伝』(三鬼陽之助著)がある。三鬼は、『投資経済』編集長時代、東洋経済新報社記者時代を通じてアンチ五島を貫いた。しかし、後に和解し、五島自身が自叙伝を書くために集めた資料などを基に、1954年に『五島慶太伝』を出版した。

同書は五島本人の存命中に執筆されたため、やや忖度していると感じる部分はあるが、事実関係の信憑性は高い。以下、同書の記述を中心に、100年史の新視点にも触れつつ、五島の業績を概説する。

五島慶太
五島慶太(写真:東急提供)

五島慶太は、1882年4月に長野県小県郡青木村に生まれた。自身は「水呑百姓の次男坊」と言っているが貧農ではなく、「千戸あまりの村では一番の資産家」だった。とはいえ当時の農家の家計は豊かではなく、小学校の代用教員を務めて学資を稼ぐなど苦学の末、24歳で東京帝大に入学した。

帝大の学生時代に、英国大使を拝命した加藤高明(後に首相)から、「留守中、息子の面倒を見てほしい」と請われ、加藤邸に居候する。そんな縁でつながった”傲岸不遜でワンマン”で知られる加藤の感化を受けたといい、「五島は実に傲慢であるとか、人のいうことを聞かないとか、いわれる所以になったと思う」と後に回想している。

役人から実業界に転身した理由

29歳で帝大を卒業すると農商務省に入省。2年後に鉄道院(後の鉄道省)に転身し、36歳で総務課長に就任。ところが、そのわずか1年半後の1920年5月、官吏生活にピリオドを打ち、38歳にして実業界に転身。武蔵電気鉄道(以下、武蔵電鉄)の常務取締役に就任する。このときの心境については、以下のように記されている。

「官吏というものは、人生のもっとも盛んな期間を役所のなかで一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達するころには、従来の仕事から離れてしまわなければならない、(中略)実業界は自分の心に適した事業をおこし、これを育てあげ、年老いてその成果を楽しむことができると考えたからである」

さて、五島が入った武蔵電鉄は、渋谷―横浜平沼間の本線(現・東横線に相当)と蒲田支線(現・多摩川線に相当)などの敷設免許を持つ、東急の源流の1つになった会社だ。当時は、後に日本商工会議所会頭などを歴任する実業界の大物、郷誠之助が社長を務めるなど、経営陣には実業界の一流どころが集まっていた。しかし、第一次大戦後の反動不況の影響などで資金が集まらず、鉄道建設は一向に進まない状況が続いた。

このような苦しい時期に、五島にとって幸運なことに、鉄道院時代に知遇を得ていた現・阪急電鉄等の創始者である小林一三を介して、目蒲電鉄の専務就任の話が舞い込んだ。

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