「コンビニ人間」が資本の論理の最終形態である訳 感情までも「商品化」する「包摂」という概念
重要なのは、資本主義化されたサービス産業は、工業中心の産業資本主義のロジックに浸透されるということです。とりわけ大資本によって運営されるサービス業は、厳密に規格化された商品を提供し、労働者にマニュアルに従って接客することを徹底的に要求します。つまり、ここにあるのはテイラー主義の論理なのです。工場で重視された身体の動作よりも、ここでは接客する際の言葉遣い、表情、さらにはそれらの基盤である感情が管理されるべき対象となります。
であるとすれば、「コンビニ人間」とは、まさにポスト・フォーディズムの時代のテイラー主義を究極的に内面化した労働者のことではないでしょうか。しかも、凄まじいことには、『コンビニ人間』ではサービス業における完全な部品と化すことが、ある意味で救済となっているのです。この物語は、いったん「正常な」人生を送ろうとした主人公が、やはり「コンビニ人間」に戻ることで終わります。そのとき、主人公には「コンビニの『声』」が聞こえるようになります。
「気が付いたんです。私は人間である以上に、コンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」(159頁)
つまり、ついにはコンビニは主人公の神になるのであり、作家は主人公の発狂を示唆しています。この狂気は、「実質的包摂」が限りなく進行し、労働だけでなく、人間の身体動作や感情、精神までもが資本のロジックによって包み込まれてゆくこの社会に生きる人間が究極的に行き着く先を指し示すものとしてとらえることもできるでしょう。
生態系全体を「包摂」する資本の論理
さて、去る2月に、私は講談社現代新書から『マルクス――生を呑み込む資本主義』と題する本を上梓しました。本書は、マルクスの思想をコンパクトにまとめ、主著である『資本論』のエッセンスを概説したものです。
そのなかでとりわけ焦点を当てたのが、本稿で話題にしてきた「包摂」の概念です。
資本主義が高度化することにより、「生」、すなわちわれわれの肉体的なものも精神的なものも含めた生命の全体が、そして人間以外の生きとし生けるものすべて(つまりは生態系全体)が資本のロジックのなかに包み込まれてゆきます。その限度を資本は持ちません。人間がどれほど人間的幸福を切望しても、資本はその欲求に応えるものではないのです。
この資本の酷薄さを最初に、そして徹底的に明るみに出したのが、カール・マルクスでした。本著作がその重要性を理解する一助になると確信しています。
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