「コンビニ人間」が資本の論理の最終形態である訳 感情までも「商品化」する「包摂」という概念
本作品にはさまざまな読み方があり得るでしょうが、一つの読み方は「疎外された労働」(カール・マルクス)の現代的形態、高度化し続ける資本主義社会におけるその究極的帰結を描いたものとしてとらえることだ、と私は考えます。「部品」になりきってしまうことが救いになる。いわば、人間の人間たる所以を捨て去ってしまうことが救いになる、そんな状況が現代の労働の現場には存在することが示唆されているのです。
「自立性の喪失」と「生産性の向上」
労働における人間の部品化は、常識的には苦痛をもたらすものであり、疎外そのものです。思想家としてのキャリアの初期から、マルクスはこのことに強い関心を向けていました。初期の代表作、『経済学・哲学草稿』にはそれが明瞭に現れています。
この問題意識は『資本論』では、「包摂」(subsumption)の概念によって発展させられました。「包摂」とは、「労働の資本のもとへの包摂」、すなわち、労働が資本によって包み込まれてしまうことを意味しますが、それは独立した存在として生産活動に従事していた人が生産手段を失い、資本によって雇われて賃労働に従事するようになるところから始まります。このとき労働者は、資本によって提供される設備・道具・原料を用いて、何を、どれだけ、どのように生産するのか、資本の指図に従って生産することになります。つまり、自立性を失います。
かつ、この自立性の喪失の程度には無数の段階があります。というのは、資本主義的生産様式には、際限なく生産性を高めてゆくという内在的な傾向があります。生産性の向上は、価値増殖を目指す資本の宿命なのです。生産性を高める過程で、熟練を要する職人的労働(すなわち、労働者の自立性が発揮される労働)は、細分化され、単純労働へと置き換えられてゆきます。つまり、労働者は段階的に自立性を失い、資本に従属するようになるのです。
マルクスは『資本論』で、工場制手工業(マニュファクチュア)から機械制大工業に至る生産様式の高度化の過程を、生産性の向上の過程であると同時に、労働者の自立性が失われ資本への従属が深まってゆく過程として描き出しました。そしてこれを、「労働の資本のもとへの実質的包摂」と呼んだのでした。
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