「コンビニ人間」が資本の論理の最終形態である訳 感情までも「商品化」する「包摂」という概念
「世界の部品」として生まれ直す
2016年に発表され芥川賞受賞作となった、村田沙耶香『コンビニ人間』(文春文庫)は、不気味な印象を与える作品として知られています。
標題の「コンビニ人間」とは、主人公の恵子のことであり、彼女は大学生時代から同じコンビニエンスストアで18年間ただひたすら働き続けている30代の女性アルバイト労働者、という設定です。
彼女の性格には何らかの精神的障害の存在も感じさせるものがありますが、ともかくも世の中の「普通」に馴染むことができません。「普通に」友人をつくったり、恋人をつくったり、就職をしたり、といったことに対してまったく意欲を持てないのです。
そんな主人公が、新規開店することになったコンビニで働き始めるとき、まさに自分にとって最適な場所を発見するのです。
「そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった」(村田沙耶香『コンビニ人間』文春文庫、25頁)
それ以来、主人公はきわめて勤勉なコンビニ店員として働き続けます。欠勤やサボり癖がないのはもちろんのこと、マニュアルを完璧にこなすことのできる有能なベテラン・アルバイト店員になります。「世界の部品」という言葉が印象的です。コンビニは完璧なマニュアルを定めており、それに完全に一体化すれば「正常な部品」になれる。それまでどうあっても世の「普通」「正常」に対する違和感しか持つことのできなかった恵子は、「部品」になるきることによって新たに生まれ直したような感覚さえも味わいます。
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