ニコラスさんが6歳のとき、両親が離婚をした。親権はどちらも持っていたので、母親が住む森の中の住まいと、父親が住む都市であるポートランドの住まいを行き来するようになった。
「父親が元バンドマンだったのもあって、小さい頃から音楽は好きでした。
子ども時代は公立の学校に通う普通の生徒でした。アメリカでは高校に入ったら基本的に外国語を勉強します。僕の高校では、フランス語、スペイン語、ドイツ語、日本語、から選択できました。母語である英語から最もかけ離れた日本語に挑戦してみるのも面白いんじゃないだろうか?と思いました。
あと、もともと絵を描くのが好きだったので、まったく成り立ちが違う形状の文字にも興味がありました」
中学時代のニコラスさんは少し荒れていて、あまり真面目な学生ではなかったという。
先生に、
「日本語は難しいから、それだけはやめたほうがいいんじゃないか?」
とアドバイスされた。
「そう言われて反骨精神がわいてきてしまったんですね。『絶対に日本語に挑戦してやる!!』って思いました」
そうして高校では日本語を専攻した。
高校で日本語を教えてくれたのは、青木さんというアメリカに住む日本人の教師だった。今でもアメリカに帰省した折には会って、食事をする仲だという。
「青木先生は神戸出身でした。当時はまったく気が付かなかったんですけど、久しぶりに会ったら、先生はしっかりと関西弁だったんですね。『先生は関西の人だったんだな』って改めて思いました。そんな先生に習ったから、僕も当初は関西弁でした。来日した頃は、イントネーションが関西弁であることをよくからかわれていました。今となってはいい思い出です」
J-POPにハマっていく
日本語を勉強するうちに、だんだんと日本語にハマっていった。ハマったいちばん大きな要因は、J-POPだったという。
「オレゴン州ヒルズボロ市と静岡県袋井市は姉妹都市なんです。15歳のときに袋井市にホームステイしました。生活するのに困らないくらいはしゃべれました。日本文化に触れて、とても居心地がいい、自分に合ってるな、と感じました」
仲良くなったホームステイ先の息子さんが
「日本では今、こんな曲がはやってるんだよ」
と1曲の歌を紹介してくれた。
「コブクロさんの『蕾(つぼみ)』という曲を紹介されました。その当時はまだ日本語をよく理解できませんでしたが『訴えるように歌っている』というのはとても伝わってきました。
洋楽と比べて邦楽は、歌詞に重点を置いていると思います。聞いているうちに
『この曲をもっと理解したいな』
と思うようになり、何度も聴き込んで、歌詞を訳したりしました。日本語を勉強するのは本当に楽しくて、一度もつらいと思ったことはありませんでした」
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