相鉄・東急直通で注目「新横浜」開発遅かった事情 開業後も長年「田んぼの中の新幹線駅」だった
一方、1972年に設立された新幹線超特急の新横浜駅停車促進協議会の尽力もあり、1976年には念願の「ひかり」停車が実現する。しかし、横浜駅と新横浜駅のアクセスが改善されていないことを理由に、停車本数は上下各1本にとどまった。
それでも、国鉄は歳月とともに新横浜に停車する「ひかり」の本数を増やしていく。そして、1985年の市営地下鉄新横浜駅延伸開業に合わせて国鉄は「ひかり」の停車本数を上下合わせて50本以上に増やすダイヤ改正を実施した。これをきっかけに、ようやく新横浜駅は横浜市の副都心として目されるようになる。
しかし、新幹線の停車本数が急増しても、新横浜駅の発展スピードは遅かった。下車する人たちの多くは、そのまま横浜線に乗り換えて横浜駅・桜木町駅・関内駅などに向かっていたからだ。新幹線は期待したほど新横浜駅の開発機運を盛り上げず、旧来の市街地に人が流れ込むだけの効果にとどまった。駅周辺は依然として未区画整理地が多く残り、市街地としての体裁を整えることはなかった。
新横浜駅の周辺は新幹線開業前後から区画整理事業が進められてきたが容易には進まず、換地処分は1975年にようやく完了している。これを契機に、駅の北側はオフィスビルや商業施設などが並ぶが、「ひかり」停車が実現した1985年時点では、来街者を引き寄せる魅力に乏しかった。
横浜アリーナやスタジアムで発展
それでも1980年代後半から開発ピッチは上がり、新横浜駅周辺は変貌を遂げていく。1989年には横浜アリーナが、1998年には横浜国際総合競技場(日産スタジアム)がオープンしている。
市は両施設の用地買収や計画策定、その後の施設運営に携わっているが、これらの集客施設によって新横浜駅の周辺は来街者を呼び込める繁華街へと成長していった。市営地下鉄が新横浜駅まで延伸開業したことや2008年に東海道新幹線の全列車が停車するダイヤ改正が行われたことなどが積み重なり、新横浜駅はようやく副都心にふさわしい街になった。
成長を続ける新横浜駅が全国から注目を浴びたのは、何といっても2002年に開催された日韓ワールドカップだろう。横浜国際総合競技場は決勝戦の舞台になり、全国各地から多くのサポーターが応援に駆けつけた。
サポーターは東海道新幹線に乗車して新横浜駅に降り立ち、そして横浜国際総合競技場を目指した。東海道新幹線を運行するJR東海も、大勢のサポーターを滞りなく輸送するために新横浜駅始発の東京駅行きという臨時列車を設定するなどの対応を見せている。
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