「壮絶な卒業試験」38年戦う武藤敬司が今語ること レスラー、経営者…「3つ以上の顔を持つ男」の軌跡
「俺がアメリカに行くまでの日本人レスラーは、猪木さんの『ストロングスタイル』や馬場さんの『王道プロレス』があったけど、俺は今までの日本人レスラーがやっていない技やコスチュームにもこだわった。
入場シーンで引きつけたり、ヘビー級の身体で華麗に飛ぶ技だったり。それがアメリカのファンにも認められた気がしたね。この時期は『プロレスとは何か?』というテーマと戦いながら、自分のスタイルや方向性に自信を掴めた時期だった」
猪木路線に反旗を翻し、「プロレスLOVE」を宣言
武藤は、アメリカでの活躍を引っ提げて日本に凱旋。1990年代には橋本真也、蝶野正洋との“闘魂三銃士”でプロレスブームを牽引し、“プロレスリング・マスター”として数々の名勝負を繰り広げていった。
しかし、1990年代末から2000年代前半にかけて、『PRIDE』などの総合格闘技人気が過熱して、日本のプロレス界は過去最大のピンチを迎える。そして新日本のオーナー・アントニオ猪木は、従来のプロレスから格闘技路線へと舵を切っていた。
当時を振り返り、武藤は持論を述べる。
「新興勢力の勢いだよね。猪木さんは、プロレスラーでありながら異種格闘技戦で這い上がってきた人だったけど、格闘技路線をプロレスのリングに持ってくるのは違うと思っていた。
PRIDEをみていて嫌だった部分は、ビジュアル的にプロレスと同じリングを使用していたこと。UFC(アメリカの総合格闘技団体)は金網でやるから差別化できていたけど、ロープが邪魔だよね。ロープを外して柔道場みたいな広場でやったら勝敗も変わり、プロレスとの違いがわかるのになってずっと思っていたよ」
自分を育ててくれた新日本プロレスだったが、武藤は猪木の格闘技路線に反旗を翻し、脱退を決意する。それでも、総合格闘技の波が押し寄せてきて、レスラー、ファン、関係者がプロレスに対して自信を失っていた時期でもあった。
そんな逆境に立ち向かうべく武藤は、「プロレスLOVE」を声高らかに宣言し、格闘技とは違うプロレスの魅力をアピールしたのだ。
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