人は何を幸福だと感じるのだろうか。大々的な幸福論を展開するつもりはないのだが、筆者が現在温めている1つの仮説は「自分が価値を認める集団のメンバーから、自分自身が認められること」だ。
昨年来メディアを賑わせてきた旧統一教会と自由民主党の問題は、やや下火になったものの、自民党の処置の悪さもあって、まだくすぶり続けている。
先日は、細田博之衆議院議長が衆議院の議院運営委員会の懇談会で、教団と安倍晋三氏の関係について「大昔から関係が深い。こちら(自分)は最近だ」と答えたと報じられた。
この種の「自分だけが可愛い人」を排除できなかったのは、自民党の組織マネジメントのミスだろう。自民党を応援したい気持ちはないけれども、そう思う。組織運営としてはグズグズだ。
「来世での幸福」という曖昧なもの
また、旧統一教会の世界平和統一家庭連合については、信者に対する養子のあっせんがあったのではないかということが問題になっている。子供を養子として「教団に捧げる」とは、いったいどのような価値観から生じる行為なのか。また、安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也被告の家庭であったような多額の寄付はなぜ行われたのか。
こうした、第三者から見ると謎の行動は、旧統一教会に限らず、ほかの宗教でも生じる。それらの宗教の教義によると、多くの場合「来世」で幸福になるらしいが、はたしてその期待が行動の十分なモチベーションになるものなのか。来世の幸せといった曖昧なものに、大胆な行動の原因になりうる動機などあるまい。
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