学者だけではなく、アスリートの中にも、ビジネスマンの中にも、職人さんの中にも、同様の集団意識の力学があるだろう。集団が何らかの優越感を持つことが悪いとは言わない。上品に飼い慣らしてくれれば問題はない。
ちなみに人間が、例えば「お金」だけといった1つだけのものを価値観とする集団にだけ属していたら、人間同士の競争が単純になりすぎて、今ほど多くの人が幸福感を持って暮らせなくなる。人は適当な集団を方々に作って、その中で幸福感の総量を増やしていると考えてよかろう。つねにうまくいくとは限らないが、そのような集団の分散化は生じているように思われる。
こうした集団を設定して、その中でメンバーに価値を与え、意識させる仕組みは、人をコントロールするうえで有効だ。したがって、方々で応用されている。
宗教に近いテイストのものでは、いわゆるマルチ商法ではグループを作らせてその中で達成を競わせるような仕組みがあることが多いし、半ばビジネス化された自己啓発セミナーなどでも同様の仕掛けがあるように見受ける。
他人の非合理性にこそ利益はある
人を時に非経済合理的に見えるような行動に走らせることがある仕組みは、経済合理性、つまり「儲け」を追求したい側の人々にとって利用価値がある。他人の非合理性にこそ利益はある。
マーケティングなどと呼ばれる行為にいそしむ人々がこの利用を逃すはずもなく、人を世代で集団化したり、ファッションなどの好みの傾向でくくったり、文化的な嗜好でグルーピングしたりして、その集団内で評価を得るためや、集団から除外されないためにお金を使わなければならない仕掛けが方々に仕組まれている。
例えば、特定の集団の中で「見栄を張る」世界に引き込むことができると、その集団の中で価値のある「地位財」(所有が地位を表現する財。不動産などが典型)のエスカレーションを伴う獲得競争に顧客を引きずり込むことができる。
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