次のように考えてみよう。すなわち、信者は、教団の集団の中で認められている段階で十分な「現世利益」を得ているのだ。宗教の価値は未来にではなく、現在の集団帰属にある。
集団のメンバーから評価されることは喜ばしい。また、利得と損失の大きさを比較すると、心理的なインパクトは損失のほうが大きいという行動経済学的な知見を援用すると、集団の要求に応えることができない自分が、集団の中での評価を大きく下げたり、集団のメンバーから除外されたりすることは著しい苦痛なので、これは何としても避けたいだろう。
人は宗教のために自死を伴うような行動に至ることがあるが、このように考えると、理由が少し納得できる。何らかの宗教などの(理由は宗教に限らないだろうが)メンバーとなって自分の居場所を得た人間が、それを失わないために行動するのだ。人にとって「居場所」とは、ほかの人に自分が認めてもらえる状況のことだ。
加えて、集団が結束するためには、集団の外のメンバーに対する何らかの差別意識が働く。露骨に差別として顕在化しないまでも、あるグループのメンバーであり、ほかのメンバーから認められていることは、集団の外に対しての何らかの「優越感」を形成する。
宗教の場合、信者でない外部の人に対して「真理を知らない哀れな人」や「誤った教え(例えば異教)を信じる駆逐すべき人々」などを設定する。こうした集団の構造と集団のメンバーに働く精神的な力を、仮に「集団の力学」と名づけよう。
「集団の力学」は応用範囲が広い
集団の力学は世間に広く行き渡っているように見える。いわゆるインテリも例外ではない。
「優秀な経済学者は、その能力を経済学以外の分野に使うなら、経済学者をやる以上に経済的に大きな成果を得ることができるのではないか。なのに、彼(彼女)が経済学者であることは、経済学の教えに矛盾していないか」とは、経済学者に対してときどき投じられる疑問だ。
筆者は学者ではないので、答えなければならない義理はないが、推察するにその理由は、「仲間内の賞賛」のほうが、予想される金銭的な成果よりも彼ら(彼女ら)にとっては価値があるからだろう。仲間内での評価に大きな「効用」を仮定すると、経済学のロジックはぎりぎり守られている。
経済学者の優越感がいかほどのものか存じ上げないが、経済学に限らず学問の世界の人たちの間には、仲間内での自己評価を大切にする意識と共に、学問的知識と心構えと(本人の自意識としては「能力」と)を持っている自分たちの集団に対する優越感があるだろう。
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