闘い10年、大川小「津波裁判」映画が示す悲痛な教訓 子どもの死亡を検証する「CDR」の大きな課題
寺田監督は、遺族が撮りためた映像を見たとき、「非常にショックを受けた」と話す。「行政と話せば話すほど、どんどん溝が広がっていく。今回は文字起こしをせずに、とにかく映像を何度も見たのですが、見るたびに動揺しました。何のために話し合っているんだろう、なぜ質問に対して全然違う答えが出てくるんだろうか、と。見ていて非常につらかった」
その経験が作品の形を決めた。
「見ているほうが、自分が参加しているように思ってもらえれば一番いい、と。とにかく客観的にあれを見るんじゃなくて、自分が当事者となって見ていただけたら、という思いで作りました」
代償を払っても、本当に知りたい答えが得られなかった
遺族の願いは「わが子がどうして死んだのか」を明らかにすることだ。自分たちが訴訟代理人になったつもりで、独自の検証も続けた。心身の負担もあり、大病を患った遺族もいる。答えを得るためには、精神的にも肉体的にも、大きな代償を払わなければいけなかった。しかも、代償を払っても、本当に知りたい答えは得られなかった。
映画が浮き彫りにするのは、そうした現実だ。死亡検証は、直接的な死亡原因(医学的な死因)だけでなく、因果関係の解明も重要だ。特に、予防策を考えるための死亡検証であれば、後者は絶対に欠かせない。そして、どこまで踏み込むかが肝となる。
原告代理人の1人、吉岡和弘弁護士(75)は、その点についてこう語る。
「宮城県の小学校で2021年、木製のポールが倒れて子どもが死亡した事件があったんです。ポールの付け根が腐っていたのを学校が見逃してしまっていたと言うんですが、なぜ放置していたのか、そこのところに、文科省をはじめ、教育委員会がしっかりとメスを入れていかなきゃいけないんだけど……。大川小の問題とよく似ているわけです。
大川小の場合は、検証委員会もそうですけれど、5000万円近いお金を使って検証したにもかかわらず、出来上がった資料(結論)は、『逃げるのが遅かった』『逃げる先が、北上川に向かう方向だった』からだと。そんなわかりきった結論を出してしまってどうするのでしょうか。問題はその背後にあります。なぜ逃げるのが遅かったのか、なぜ北上川に向かったのか、です。
検証という名のもとに、実はごまかしがある。一見、検証しているように見えますが、実は官側ないしその加害側に何ら責任が取れない形、彼らにとっていい形で、オブラートに包んだような検証がまかり通っている。それが日本の現状じゃないか」
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