その時、
「コーヒーおかわりいかがですか?」
という、なんとも呑気な数の声が聞こえてきた。二美子はいらだった。
数は、二美子の恐怖も知らず、助けようともせず、ワンピースの女にコーヒーのおかわりをすすめている。
二美子は、(確かに幽霊だと言われて、それを信じなかった私も悪い。強引に彼女から席をゆずってもらおうと腕を掴んだ私が悪い。でも、「助けて!」と叫んでいる私を無視して呑気にコーヒーのおかわりをすすめるというのは人としてどうなのよ! 幽霊がコーヒーのおかわりをほしがるわけないでしょ!)と思ったが言葉にはならず、
「噓でしょ!」
とだけ叫んでいた。
だが、その直後、
「お願いします」
という透き通った声が聞こえてきた。ワンピースの女の声である。その瞬間、二美子の体は急に軽くなった。
「あ……」
「本当に幽霊なの?」
呪いは解けた。二美子は、ハァハァと息をつきながら、膝立ちで上体を起こして数をにらみつけたが、数は「どうかしましたか?」とでも言いたそうに、すました顔で小首を傾げた。ワンピースの女は注がれたコーヒーを一口飲んで、再び静かに本を読みつづけている。
数は何事もなかったかのようにカラフェを片づけるためにキッチンに姿を消した。
二美子はおそるおそるワンピースの女の肩にもう一度、手をのばした。指先がふれる。やはり、ここにいる。存在する。
あまりの出来事にまだ頭が混乱している。でも、体験はした。間違いなく二美子の体を見えない力が押さえつけていた。頭は理解に追いついていないが、心臓はすでにこの状況を受け入れていて、たくさんの血を体中に押し出していた。
フラフラと立ち上がり、カウンターに寄りかかっていると、キッチンから数が戻ってきた。
二美子はオロオロと不安げな目で、
「本当に幽霊なの?」
と、数に質問した。
数は「はい」とだけ答えて、カウンター上のシュガーポットの砂糖を注ぎ足しはじめた。
二美子にとっての初体験は、数にとって、シュガーポットに砂糖を注ぎ足す事となんら変わらぬ日常の一コマであった。
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