当初の目的は、五郎のアメリカ行きを阻止するために過去に戻る事だった。阻止するというと聞こえは悪いが、「行ってほしくない」と告白する事で五郎はアメリカへ行く事をやめてくれるかもしれない。あわよくば別れなくてすむかもしれない。つまり、なぜ過去に戻りたいのかといえば、それは「現実を変えたいから」であった。
だが、現実は変わらないというのであれば、五郎がアメリカに行く事も、別れる事も、変える事はできない。しかし、二美子は今猛烈に過去に戻りたい、戻ってみたいと思っている。これは過去に戻る事自体が目的になりつつあるという事だ。この不思議な現象を体験するという事実に二美子は胸をときめかせている。それがいいのか、悪いのかはわからない。だが、過去に戻るという経験はプラスにはなっても、マイナスにはならないと、自分に言い聞かせた。
二美子の深呼吸が終わると、数が戻ってきた。
二美子は判決を言い渡される被告人のように顔をこわばらせていたが、数はカウンターの中から、
「過去に戻れるのはこの喫茶店のある席に座った時だけなんですが……」
と、告げた。聞いた途端、二美子は、
「どこ? どこに座ればいいの?」
と、ブンブン音が聞こえそうなほど激しく首を振り、店内を見渡した。
数は、そんな二美子のリアクションに関係なく静かに白いワンピースを着た女をじっと見つめていた。
二美子が数の視線に気づき、その視線を追うようにワンピースの女を見ると、
「あの席です」
と、数は静かに言った。
「……あの、女の人の座ってる?」
二美子はワンピースの女を凝視したまま、カウンター越しに小声で数に聞くと、
「はい」
と、数は簡潔に答えた。
その短い返事を聞き終わる前に二美子はすでに白いワンピースの女の前に歩み出ていた。
ワンピースの女は、透きとおるような白い肌に、それとは対照的な長く黒い髪の幸薄そうな印象の女だった。春とはいえ、まだ少し肌寒いのに、半袖のワンピースを着た女のまわりにはコートのようなものは見当たらなかった。二美子は多少の違和感をもったが、とにかく今はそれどころではない。二美子はワンピースの女に声をかけた。
「あの、その席代わってもらえませんか?」
二美子はあせる気持ちを抑えながら、失礼のないように礼儀正しく声をかけたつもりだった。だが、ワンピースの女からはなんの反応もなかった。まるで聞こえていないかのように。二美子は少しムッとしたが、本を読むのに没頭するあまりまわりの声や音が聞こえなくなる事は稀にある。きっとそれだろうと思い、再度声をかけた。
「あの……? 聞こえてます?」
「……」
やはりワンピースの女からは何の反応もない。
「その人……幽霊なんで」
「無駄ですよ」
二美子の背後から予想もしない言葉が飛んできた。数の声である。二美子は「無駄ですよ」と発言した数の意図を理解するのに時間がかかった。
(席をゆずってもらいたいだけなのにムダデスヨってどういう事? 席をゆずってくださいとていねいにお願いしているのにムダデスヨ? 待って、これも何かのルール? そのルールをクリアしないとダメって事? それだと、ムダデスヨって言い方は少し違うような気がするけど?)
二美子の頭の中は一瞬でめまぐるしく回転した。回転したが、出てきたセリフはごく普通の質問だった。
「なんで?」
二美子は子供のような純朴な眼差しを数に向けた。数は二美子の目をまっすぐに見つめ返し、
「その人……幽霊なんで」
と、告げた。噓、偽りを感じさせないはっきりとした口調である。
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