母を「守らな」20代息子が介護中心生活を送る事情 全存在で「ヤングケアラー」の役割を引き受けて
母親が言葉を失っただけでなく、けいたさんもまた言葉を失う。けいたさんは「申し訳なさ」ゆえに母と「全然会話〔が〕なく」なり、「ただいま」と言えないほどである。つまりけいたさんの母に対する沈黙は、〈倒れた後〉の罪悪感と結びつけられている。
「申し訳なさ」は「頭真っ白」になった最初のショックの文脈のなかにあり、強い意味を持つものだ。何度も登場する「申し訳なさ」は病以後の世界である今現在にいたる時間を貫いている。
過去への取り返しのつかなさ
けいたさんの沈黙は、母親が倒れた際の「頭真っ白」という「最悪な状況」の延長線上にある。つまり「頭真っ白」という瞬間、「申し訳なさ」の持続、「何かあったらどうしよう」と先取りする時間の秩序は、けいたさんが感じた無力感がどのように時間を構成したのかを示す。この構成がけいたさん自身の沈黙に連結しているのだ。そしてこの沈黙はここでも身体の配置に関わる。
言葉を失った母親を受けて、けいたさんもまた「お母さんの顔、ちゃんと見れない」し話すことができないという沈黙に陥ったことが語られる。沈黙は、目を合わせられないというすれちがいの身体の配置をともなう。申し訳なさが、身体そして空間配置にも影響するのだ。
倒れる前からの不安が、倒れた後に「倒れる前に検査行っとけば」という「申し訳なさ」につながっている。
「申し訳なさ」のなかに感じられる過去への取り返しのつかなさは、うつ病の古典的な描像(びょうぞう)であるテレンバッハのレマネンツ(とりかえしのつかないことをしてしまったという感覚)や木村敏のポスト・フェストゥム(あとのまつり)といった概念のなかにも見られる(H.テレンバッハ『メランコリー[改訂増補版]』木村敏訳、みすず書房、1985/木村敏『時間と自己』中公新書、1982)。
けいたさんの語りは全体として〈世界(あるいは母親の生命)の脆(もろ)さ〉を踏まえたものである。「頭真っ白」も「申し訳なさ」も、「何かあったらどうしよう」という母親が倒れた「最悪な状況」から派生する。
(この記事の後編に続く)
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