フレンチの巨匠が「スーパーの食材」で作る深い訳 三國清三シェフ「料理人人生に"置き忘れたもの"」
――修業から戻られてから、三國さん自身はどちらのタイプでシェフをされたのでしょうか。
シェフになって10年以上はジラルデスタイルでやっていました。即興ですね。それからあとはアラン・シャペルのスタイルに変えています。
シェフになってからスタッフは全員日本人でした。日本人はとても優秀で、教えたことは100%忠実にやる。一方、僕は28で帰国して、ばりばりのフランス人の気分で、毎日レシピを変えてやりたかった。
僕が「違う!」って言うと彼らは「昨日これでいいって言ったのに」ってキョトンとする。でもそんなこと言われたら、僕はぶちぎれる。最終決定が正しいんだ!と。毎日それが続く。ある日「お前ら、やめろ!」って言ったら、次の日本当に誰も出てこなかったんですよ。それは反省しました。
今でも本当はメニューを決めたくないんですよ。でも、20年30年と店を続けて行くために、自分のそのときの気分だけを優先することはできない。だから今は、グランドメニューがベースで、たまに即興の要素もちょっと、という感じです。メニューはある程度決めて、ある程度準備して。でもたまにストレスがたまると厨房でパッと変えるけど(笑)。
料理人人生に「置き忘れたもの」
――先日、「2022年12月いっぱいでオテル・ドゥ・ミクニの第1章は終わりです」と発表されました。
この場所はいったん更地にして、マンションを建てます。1階に30坪で8席のカウンターの店を作ります。
「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業した当初、敷地は今の半分でした。人気が集まって、半年先まで席が取れない店になった。それで隣の敷地を買い取って、倍の席数に広げたんです。
その後店舗展開することになったのは時代の要請でした。丸の内の再開発の店舗を依頼されて、1999年12月、現在の「ミクニマルノウチ」を開業しました。そうすると名古屋、札幌と全国から依頼が来た。こうして地域や政府の公的な仕事に携わるようになって、昔の「流れ者」と言われたような料理人の地位をわれわれが変えなきゃいけないと思ってやってきました。
それはそれでやりがいがありましたが、ポツンと置き忘れたものが自分の中にあって、それは自分の中で来世でしかできないと思っていたんです。
――料理人さんの70歳から80歳のキャリアパスを提示された方はこれまでほとんどいらっしゃらなかったような気がします。これからまったく新しいことをされるのはとてもパワーが要るのではないかと思うのですが、三國さんをそこに向かわせる原動力は何だったのでしょうか。
自分の中で置き忘れたものとは、お客さんのために1人で料理を作りたいということです。僕は再来年70になります。そのほかいろいろタイミングが重なって、思い切ってやろうと思った。建物を壊すと決めたことについてはみんなから残念がられました。でも新しいことに挑むには、ここをすべて壊さないといけない。自分が作ったものだから。ここを残したまま何かやろうなんて、そんな甘いものじゃない。
自分の目の届く小さな店を作る。そこは基本的に僕1人で料理します。ひとりで料理に向き合って、1人ひとりのお客さまに提供したい。70歳からまったく新しいアプローチで1つの実績を作りたい。今はそういう思いなんです。
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