売れ筋は105円!老舗問屋が古着店に驚きの転身 創業は明治、ショッピングセンターへの出店も

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羽田社長は1975年に慶応大学を卒業。羽久の取引先でもあった日本橋三越に就職した。ところが三越入社5年後には2代目が亡くなり急遽、家業を継ぐことになった。この頃には、かつて隆盛を極めた小間物の卸売は存亡の危機に立っていた。「集団就職で働きに来た社員も多く、僕にとっては家族のようなもの。社員の皆さんのおかげで大学に行かせてもらえたのだから、絶対に会社を潰すことはできなかった」。

そこで、チェーンストア研究団体ペガサスクラブの勉強会に参加するなどして再建の道を探った。台湾などで安く作らせたファッション雑貨をディスカウント店に卸す事業が当たって年商10億円規模まで息を吹き返したこともあった。

しかし、1987年に「100円SHOP ダイソー」が登場。「100円ショップ」が大ブームとなり、息の根を止められてしまう。

問屋ではなく小売、新品ではなく中古

そんな窮地の中で出合いがあった。「ハードオフのFCを始めた静岡県の知り合いからどうしても来てほしい、どうしても話を聞いてほしい、と誘われた。おそらく夜の宴会で座持ちさせるために呼んだんだと思う。でもハードオフの事業について聞いているうちにピンと閃いた。これは古着でもやっていけるかもしれないと」。1989年のことである。

さっそく、母親が経営していたファッション小売店、西葛西のヴァンベールで古着の販売を始めた。パートで働いている女性に洗濯をした古着を持ってきてもらい、売り値の3分の1の価格で買い取って、それを店の外に並べてみたのだ。そうしたところしっかり売れた。

1989年といえばダイエー、ジャスコ(現イオン)の安売り競争が過熱していた時期。「小間物の卸売は厳しい。かといって小売でも大資本には勝てない。古着販売で行くしかないと決めた」。

仕分け作業をする羽田社長
古着の仕分けと値付けをする羽田社長(左)。商品の保管には、写真奥に積まれているような海苔用の段ボール箱を使っている。丈夫で使い勝手がいいそうだ(記者撮影)

当初は、店の外で始めた古着販売。徐々に店内の売り場を増やしていき、古着専門店へと姿を変えていった。この西葛西本店を起点に、パート社員の通勤に便利な東西線沿線で多店舗展開を進めていった。

ちなみに、なぜ第1号店だけが「ヴァンベール」で、その他の店は「たんぽぽハウス」なのだろうか。羽田社長いわく、もともとの店名で多店舗展開を進めようとしたのだが、ヴァンベールだと高齢者には読みにくい。そこで読みやすさを重視して、店名を変えた。

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