ゆたぼんが大炎上する世相が映す「関心経済」の罠 「感情の消費」「虚像としてのアンチ」の本質問題

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ゆたぼんの「学校に行って洗脳されて思考停止ロボットになるな!」といった発言の子どもへの影響を懸念し、批判の声を上げている人々は、多くの場合、それが自己の体験を一般化する暴論にしか聞こえないために憤っている。つまり、真面目に義務教育を受けることをバカにされていると感じられているのだ。

一方、ゆたぼん側は、不登校も選択肢の内という生き方を推奨しているだけなのに(動画における「学校に行きたい子は行って、行きたくない子は行かんでいい」などの発言)、いまだ世間の常識に囚われている人々の猛反発を引き起こし、バッシングに発展していると思わずにはいられない。事実、そういった反応は少なくなく、単なる誹謗中傷も目立つ。そのため、自己の体験そのものが否定され攻撃されているとみなすしかなくなる。父親の「やりたいことをやって生きている人に嫉妬してるだけ」というツイートはそれを裏付けている。

このように両者が平行線を辿った末に、二項対立が先鋭化してしまう。感情の中でも怒りがネット上の拡散に強く影響することが多くの研究で分かっているが(“Anger Is More Influential than Joy: Sentiment Correlation in Weibo”などを参照)、アンチと称される人々が親子を揶揄(やゆ)する書き込みをし、父親がアンチを意識して「洗脳」や「奴隷」という言葉で学校教育を批判する応酬が繰り返され、それをネットメディアが取り上げることで、事態はより悪化していく。

無視されるよりはまし

ニュース記事で引用された発言だけを読み、脊髄反射的なネガティブな感情に支配された人々が続々とコメントをしたり、「いいね」をしたりしてしまう。もはや不愉快なコンテンツに対する意思表明があるばかりである。だが、「関心経済」のロジックから見れば無視されるよりはましとなるだろう。

3つ目の「虚像としてのアンチ」は、ユーチューバーが作られたキャラクターで、コンテンツを供給する側であることと表裏になっている。ユーチューバーは、自身の物語を共有してくれるファンやオーディエンスとの双方向性で成り立つ。友敵図式をもたらすアンチという存在は、むしろ物語を盛り上げる刺激剤になりうる。

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