マレーシア人監督「日本映画」に思う"海外との差" 日本の会社に就職し、中国で映画作りを学んだ

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まだバブルの名残のある頃で、日本のエレクトロニクスは勢いがあり、パナソニックやソニー、シャープがマレーシアで工場を作り、半導体や電気製品を盛んに作っていました。

そこで、「パナソニック、ソニーを生んだ『ものづくりの国』の日本に行って半導体のことを勉強し、将来はマレーシアの日本企業に勤める」と言って親を説得し、日本に留学したんです。

映画は好きでしたが、その時点では映画監督になろうとは思っていませんでした。

マレーシア
リム監督(写真:筆者撮影)

――大学卒業後は日本の会社に就職していますね。

当時「0061(ゼロゼロシックスワン)」のCMが流れていた国際デジタル通信(IDC)に就職しました。吸収合併を繰り返して今はソフトバンクになっていますが……。そのまま会社に勤めてたら、今、ソフトバンクの社員になってたかもしれません。

既存の技術を活かしてネットワークを組む企画寄りのエンジニアの仕事をしていましたが、お客さんに直接会うこともなく、黙々と仕事をしていました。自分は人と会うのが大好きなのですが、エンジニアの仕事は自分のやりたいことではないということが徐々にわかってきました。

そこで映画業界に転職しようと思ったのですが、周りにはまったく映画関係者がいなかったので、6年間勤務したIDCを辞めて中国の北京電影学院に留学しました。

映画を学ぶために中国へ

――なぜ、中国に留学したのでしょうか。

それは経済的な理由です。フランスやアメリカにも有名な映画学校がありますが、当時の中国はオリンピックの前で物価が安かったんです。

また、2000年代当時、日本に入ってきた映画は、ジャ・ジャンクー監督の作品などがあり、面白かったということもありました。中国が面白くなっていくのではないかという予感がありました。

――名門映画学校・北京電影学院での日々はどのようなものだったのでしょうか。

北京電影学院は行ってからガッカリしました。先生は自慢話しかしないし、僕にとっては実践的なことは何も教えていないところでした。学費も現地の人は安いのですが、留学生は6倍以上でした。そういうルールがあることも知らなかった。それで大学は中退しました。

中退してからは、中国と香港を行ったり来たりして、映画の現場にスタッフとして参加しながら、現地で知り合った人と短編映画を作っていました。

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