宮沢賢治に石川啄木と、何かと文学に縁のある岩手県の鉄道。ただ、大船渡線の“鍋鉉線”のごとく、政治色の濃い路線も少なくない。その1つが、盛岡駅から北上高地を超えて三陸海岸の宮古駅までを結ぶ山田線。国内でも屈指の閑散路線として知られる山田線もまた、政治と強く結びついた誕生の歴史を持つ。
山田線そのものは三陸海岸と北上盆地を結ぶ鉄道として明治時代から構想はあったが、あまりに山深いところを通ることから実現していなかった。
それが急に動き出したのが盛岡出身の政治家・原敬が総理大臣に就任した時期だったのだ。「猿を乗せるつもりか」「鉄道規則では乗せないことになっています」などという“山猿問答”が帝国議会で繰り広げられたという都市伝説まで伝わっている。山猿問答の真偽はともかく、山田線はそれくらいに建設当時から超ローカル線だったというわけだ。
ただ、結果的に1934年に宮古駅まで、次いで1939年に三陸海岸沿いを南下して釜石駅まで通じると、しばらくはたくさんのお客であふれて大盛況だったという。マイカーもバスもなかった時代のこと、三陸海岸の人々にとっては、待望の“鉄道”だった。
山田線は2011年の東日本大震災で被害を受け、海岸線を走る宮古―釜石間は長期にわたって運休に追い込まれた。もともとの利用者数の少なさもあっていったんは廃止濃厚になったが、復旧後に三陸鉄道に移管することで決着。2019年3月に三陸鉄道北リアス線・南リアス線と合体して三陸鉄道リアス線となって運転を再開している。
長大路線の三陸鉄道
三陸地方は山田線がやってきてようやく鉄道に恵まれた。東日本大震災の例を引くまでもなく、たびたび地震・津波の被害に見舞われてきた三陸地方では、救援ルートの確保という目的もあって鉄道はまさに悲願だったという。それを本格的に実現したのが、山田線の一部区間ものみ込んで長大路線になった三陸鉄道だ。
三陸鉄道は宮古線(宮古―田老)・久慈線(久慈―普代)・盛線(盛―吉浜)という3つの国鉄ローカル線がベースになっている。いずれもお客が少なく、国鉄末期に廃止されそうになったところ、第三セクターに転換して存続。さらに未成区間の建設を続けることを決定して1984年に三陸鉄道北リアス線・南リアス線として開業した。これによって、北の八戸線と合わせて三陸海岸全体を縦断する鉄路が完成し、住民たちの悲願が成し遂げられたというわけだ。
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