斜陽のイギリスを輝かせたエリザベス女王の軌跡 「大王」と呼ばれるにふさわしい在位70年

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しかし、新女王の門出は厳しいものだった。国外における「脱植民地」の潮流に加え、国内では労働組合の力が強大化し、インフレと賃上げストライキとが交互に生じていた。1960~70年代には、イギリスはかつての敗戦国であるイタリア、西ドイツ、そして日本にも経済力で追い抜かれてしまった。

「英国病」などという造語が日本で現れたのもこの頃のことである。さらに北アイルランド紛争も激化し、テロ組織IRA(アイルランド共和軍)による爆弾テロなども横行した。1979年には、女王の夫君エディンバラ公爵の叔父にあたるマウントバッテン伯爵(第2次世界大戦の英雄)が、IRAのテロにより爆死していた。

サッチャー革命と「置き去りにされた人々」

そのようなときに救世主のごとく現れたのが、イギリス史上初の女性首相マーガレット・サッチャーであった。いわゆる「サッチャー革命」により、国家財政と経済力の回復が図られた。サッチャーが首相から辞任する頃(1990年)までには、イギリス経済は上向き始めた。

しかし、「金融ビッグバン」によってシティの活力を取り戻す一方で、労働組合運動を完全に封じ込め、20もの炭鉱を廃鉱へと追い込み、多くの失業者を生み出した革命は、イギリスにおける経済格差をさらに広げてしまった。

1990年代に入ると、イギリス王室にも多くの危機がおとずれる。とくに1992年は、女王の長男チャールズ皇太子がダイアナ妃と別居し、次男アンドリューも同じ道をたどった。さらに長女アンは離婚に踏み切っている。同じ年にウィンザー城の一部が火災で焼けて、女王は思わず「ひどい年だった」と晩餐会のスピーチで嘆かざるをえなかった。

その5年後の1997年8月末、前年にチャールズと離婚したダイアナがパリで交通事故死をした。1週間後に予定された葬儀までの間、宮殿の前には多くの人々が連日集まり、花束やカードなどがうずたかく積まれていった。大衆はダイアナに公式に弔意を示さない女王の態度が「冷たい」と非難し始めた。スコットランドに滞在していた女王は、秘書官の進言を聞き入れて急ぎロンドンに戻り、葬儀にも出席して事なきを得た。

ところが事態はそれでは終わらなかった。それまでは8割に近い支持率を得ていた王室の人気が急落したのだ。その背景には、「王族は国民の税金で生活しているくせに、慈善活動に精を出していたのはダイアナだけだ」と信じていた大衆の王室に対する怒りが見られた。

しかし歴史上、イギリス王室は税金など「1ペニーたりとも」生活費に使ったことはないし、最晩年のわずかな時期だけに慈善活動に身を投じたダイアナとは異なり、王室は18世紀後半から実に200年以上にわたって慈善活動に精を出してきていたのである。

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