「ホラーの帝王」が描いた「選択と集中」が招く悲劇 「話半分に聞く」姿勢で新自由主義を生き抜く

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結局のところ、新自由主義が典型とする主体は、企業的な個人であり、かれらが他者と取り結ぶ唯一の関係は、競争的に自己を高めるなかにしかありません。さらにそこから立ち上がってくる、社会組織の主流モデルは、協働ではなく、むしろ競争社会です。言葉を換えれば、新自由主義には、実効的なケア実践も、ケアのための言葉もないのです(ケア・コレクティヴ著 岡野八代+冨岡薫+武田宏子訳・解説『ケア宣言 相互依存の政治へ』 大月書店 p.6)。

このように、ジャックは新自由主義的立場における典型的な主体として振る舞っていることがわかると同時に、その状況を可能にしたケア労働は社会的劣位に置かれてきたのだ。さらに『シャイニング』を観ていて印象的だったのは、客観的には「悲劇」が起きているのに、当人のジャックは活き活きとより活動的になっていくことだ。そしてあるがままの自分を受け入れてくれる、好き放題させてくれるこのホテルを、ジャックはユートピアだと思ってしまった。

つまりこの映画の怖いところは、ジャックという主人公の主観的なユートピアが、妻や子ども、観客の客観的な視点からはディストピアにしか見えない点なのだ。新自由主義的な社会では社会的強者はどこまでも自由に振る舞えるが、その自由は犠牲を払って成り立っていることを認識する必要がある。

もうそろそろぼくたちは、無条件で自由を謳歌できる世界を「ユートピア」と呼ぶことをやめねばならない。端的に言うと、すべてが許される世界は存在しないのだ。とはいえ「ユートピアが存在しない」ことは、人生に逃げ場がないことを全面的に受け入れることとも違う。世界はユートピアかディストピアかに分けられるのではなく、一日のさまざまな場面で良いこともあればつらいこともあるし、楽しいこともあれば悔しいこともあったりするような、そういうさまざまな場面の総体として成り立っているのだ。

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