ソ連東欧圏を崩壊させたゴルバチョフ氏の君主論 最後の書記長が残したウクライナ問題という火種
そこでゴルバチョフは初心に帰れ、すなわち「レーニンに帰れ」と主張した。レーニンはソ連をコミューンという自治組織でつくりあげようとしたのだと主張し、それをスターリンがねじ曲げてしまったのだと彼は批判した。コミューンによって新しい社会主義を実現しようというのだ。それがまさにペレストロイカであった。
しかしこれはきわめて危険な一面をもっていた。ソ連体制を維持しつつ、変革をどこまでやるかという現実的問題があったのだ。この改革は「牛の角を矯めて、牛を殺す」ことになりかねない。ソ連それ自体を破壊する可能性があったのだ。
ペレストロイカは企業の独立採算制による効率化と民主化の実現であったが、これを脳天気にやれば、ソ連や東欧のたがが緩み、西側世界にソ連・東欧圏は吸収されてしまうのではないかという懸念があった。しかしゴルバチョフはある種ロマンチストで、そのまま突っ走っていった。
したたかなレーガン元大統領との対峙
当時ソ連と敵対していたアメリカのレーガンは、ゴルバチョフとまったく違ったタイプの人物だった。アメリカも1970年代、フォード、カーターといったアメリカの過去を反省するロマンチックな大統領が続き、ベトナム戦争や悩めるアメリカを真面目に改善しようと考えていた。ところが1980年、こうした懺悔や卑下を覆す、自信満々のカウボーイが登場した。レーガンは強いアメリカ、資本主義の伝道師としてのアメリカを復活させたのだ。
レーガンはいきなり銀行の利子率を上げてインフレ退治を強行し、強いドルを求め、社会福祉予算のカットと軍事予算の増大を行い、強いアメリカの復活をアピールした。ソ連とまったく対照的なアメリカの大統領とゴルバチョフが、この時代の世界に大異変をもたらしたのだ。
ゴルバチョフは、ソ連の現状を批判する中、軍事費の削減、核ミサイルの削減を主張し、アメリカと交渉に望んでいく。とりわけ決定的だったのは1986年4月26日に起こった、ウクライナにあるチェルノブイリ(チョルノービリ)原発の事故であった。
それまで冷戦構造の中で、第3次世界大戦という戦争の脅威であった核問題が、原発事故という形で現実のものとなったのだ。原子力エネルギーの猛威がいかなるものかを印象づけた決定的な事故であったことはまちがいない。すでにアメリカのスリーマイルズの事故はあったが、ヨーロッパ全体に及ぼした大きな影響は、その規模において計り知れないものであった。折からの風に乗って放射性物質がヨーロッパ中に拡散した。
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