ソ連東欧圏を崩壊させたゴルバチョフ氏の君主論 最後の書記長が残したウクライナ問題という火種

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ゴルバチョフは、1917年革命とその後のソ連の形成を知らない世代に属していた。ブレジネフ、コスイギン、チェルネンコ、アンドロポフなどは、すべて革命後の時代を体験している人物であった。ゴルバチョフは1931年生まれで、学生時代フルシチョフによるスターリン批判(1956年)を経験した世代であった。

彼は自らの著作でこう述べている。「現在の世界に存在する矛盾対立、社会・政治体制の相違、さまざまな時代にさまざまな国によってとられた選択の違い、こういったいろいろな違いがあるにもかかわらず、世界はひとつなのである」(ミハイル・ゴルバチョフ『ペレストロイカ』田中直毅訳、講談社、1987年、8ページ)。

ゴルバチョフは、共産主義の使命ということ以上に、冷戦下の第3次世界大戦の可能性という世界の運命のほうに関心を持っていた新しい世代の人物であった。その意味で、彼はこれまでソ連に見られた冷徹な政治家ではなく、ある種ロマンチストであった。

ロマンチストの指導者

ゴルバチョフは、1980年当時のソ連の状況をこう説明している。

「この15年間で、国民所得の伸び率は半分以下になり、80年代のはじめには、経済は停滞状態というところまで落ち込んでいた。かつては世界の先進諸国に急速に近づきつつあった国が、一段また一段と地位を落としてきているのだ。おまけに、生産効率、製品の品質、科学技術の進歩、ハイ・テクノロジーの開発および先端技術の応用、といった面での、先進諸国とのギャップが大きくなっている」(前掲書、20ページ)

「イデオロギーの面でもやはりブレーキ機構が動いている。問題が持ちあがったり、新しいアイデアが出てきたとき、それを前向きの姿勢で詳細に検討しようとすると、猛烈な抵抗にあうのである。物事の成功が実際うまくいった場合もそうでないときも、成功した、うまくいったというプロパガンダがさかんに行われ、それを褒め称え、それに習うように仕向けられる。一般労働者・大衆の希望や意見は無視される。社会科学においては、学者ぶったかたくるしい理論付けが尊重され盛んに行われるが、独創的な考えは受け入れられることがない」(同、23ページ)。

すでにフルシチョフの時代にソ連経済の改革は進み、1965年にソ連の経済学者であるエフセイ・リーベルマンの提言した経済改革が進んだが、その結果はほとんど無であったのだ。いやそれ以上にひどかったのが、成功していることをことさら強調する習性がソ連全体で身についてしまっていたことである。いつのまにかそうした習性がはびこり、目標値を粉飾し、国家の財政投資を受けとり、報奨金をもらい、努力して成功するより、ごまかしてせしめる方向に進んでいたことであった。

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