1970、80年代の台湾で練られた日本人救出計画 現在の日本に台湾有事への備えはあるか

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加覧氏は児童生徒の生命を守るため、当時、台湾省政府の車両担当の役人になっていたかつての戦友に相談したのだった。

実は、加覧氏は先の大戦で台湾南部・鳳山の第7部隊(蓬第19703部隊)に所属していた。部隊は枋寮から恒春一帯の海岸陣地に展開。敗戦までの8カ月間、台湾人の戦友らと共に、連日猛烈な爆撃と銃撃の中を生き抜いたのである。

仮に台北市内のどこかで暴動が発生した際、戦友の台湾人は管轄の車両を直ちに郊外の学校に派遣し、児童生徒を確実に親元へ引き渡すこと。また、学校付近に居住している派遣教員家族の非常持ち出し品準備を徹底するなど、加覧氏と共に計画していた。国連脱退の日は、政府や学校相互の電話連絡に努めるなど、まさに軍隊さながらの詳細な打ち合わせをしたという。

また、戦友の台湾人は派遣教員とその家族の隠れ家を準備しており、ひそかに予行演習を提案されたが、これは断ったと記している。

結論から言えば、当日は心配された暴動はなく、両人の杞憂に終わった。しかしその日は、加覧氏は校長室で、戦友の台湾人は役所で、ニューヨークからのラジオ放送を聞き外部情報に全神経を集中させる緊張状態にあったという。

戦中の人脈を危機管理に生かした

ここでのポイントは、当時の台湾には「日本」がまだ色濃く残っており、先の大戦で一緒に戦った戦友もいたことが挙げられる。ものすごく太い絆で結ばれた人間関係を、危機管理において十分に活用できた例だろう。また、この頃は、在留邦人の大多数は企業の海外駐在員とその家族が占める状況にあり、現地で完全に根を下ろして生活する人々は多くなかった。そのため、一括で保護や脱出を前提としたシンプルな救出活動を、比較的展開しやすかったとも考えられる。

次に在台邦人に緊張が走ったのは80年代後半だと言われている。

1988年、総統の蒋経国が逝去。副総統の李登輝が総統職を引き継ぎ、台湾人が台湾を統治する時代を迎える。一方で、前年に戒厳令が解除されたが、物々しい緊張した空気と、言論をはじめとする自由が突然解き放たれた空気が混じり合ったものが、台湾社会を覆っていた。

それを物語る2つの事件が、台北の日本人に起こる。1つは、日本の右翼団体の1つである日本青年社が尖閣諸島の灯台設置10周年を記念してこれを新調したことを発端に、尖閣の領有を台湾だと主張する過激な人物によって、台北日本人学校の外壁にペンキで落書きされたり、卵を投げつけたり、学校付近で抗議デモが繰り広げられたりする事件が発生する。まるで戒厳令でくすぶっていたエネルギーが、解除とともに火を噴いたようだ。

もう1つは、同校に通う児童が誘拐事件に遭ってしまったのだった。結果無事に解放されたが、一連の事件から、当時の交流協会(日本大使館に相当、現在の日本台湾交流協会)は学校とPTA幹部の間の打ち合わせで、学校関係者を中心とする在台邦人の救出計画が話題に上るようになった。当時の関係者によれば、大まかな計画としては次のようなものだったという。

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