1970、80年代の台湾で練られた日本人救出計画 現在の日本に台湾有事への備えはあるか
2022年8月初め、アメリカのナンシー・ペロシ下院議長の台湾訪問に反発した中国は、2022年8月3日から台湾を取り囲むように6カ所の海域と空域で「重要軍事演習」を行い、その後も周辺地域での演習を常態化させようとしている。それまで机上で考えられていた「台湾有事」が現実的なものに変わったが、危機を最も身近に感じたのは2万人以上いると言われる台湾の在留邦人だろう。これまでどのような保護や救出が計画されたのか、いくつかの例を取り上げ考えたい。
75年前に起きた在留邦人への危機
戦後間もない1947年、台湾を接収した中国国民党(以下、国民党)が台湾人を無差別に弾圧・虐殺した事件があった。二・二八事件である。当時、在留邦人(主に台湾の戦後復興に留め置かれた日本人技術者や学者らの「留用者」)の間に大変な緊張が走ったと言われている。ある人は無実の人がいきなり銃殺されるのを目の当たりにしたり、ある人は自宅に人が逃げ込みかくまうことになったり、事件を身近に感じた人は少なくなかったという。
しかし、この時期の邦人らは基本的には国民党政府の要請で居留していた人々であり、また、戦前から途切れなく続く台湾人との関係は良好だった。事件の情報入手は困難だったものの、それぞれの生活環境や人間関係から得たものを互いに共有し、的確な状況把握と対応に結び付けただろう。そして大戦後からまだ2年しか経っていないことから、戦時下に培った行動方法が役に立ったとも考えられる。
次に台湾の日本人社会に危機が走ったのは、1971年の中華民国の国連脱退と翌年の日華断交の時期だったと言われている。当時の様子を台北日本人学校で第6代校長だった加覧尚芳氏が、創立50年を祝う寄稿文で書き記している。
加覧氏は、台湾の不満分子が暴動を起こすおそれがある日は国連脱退の日であること。また口には出さないが、日本国大使館もある程度の情報は入手していたと記している。そしてどこよりも警戒していたのは台湾政府であり、仮に暴動が発生した際、真っ先に狙われるのは日本人であると、戦前に台湾中部で発生した日本人惨殺事件「霧社事件」を引き合いに出して回顧していた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら