学生時代から西濃学園にかかわる常勤スクールカウンセラーの太田宣子さんは、語ります。
「トゲトゲして入ってくる子が多いですが、ここではそんなトゲトゲも、『ええやん!』と言って面白がってもらえます。そしてだんだんと丸くなっていく……。でも実際は1人ひとり違うから、私たちカウンセラーも何が正解だか本当にわかりません。戸惑いの連続です。失敗もたくさんしました。いくら専門知識をもっていたとしても、私たちはここでいっしょに生活しているから、つくろいきれません。結局はひととひととのふれあいの問題になります」
自然や地域から隔絶された社会であえぐ子どもたち
地域のひとたちとともに歩む。これも北浦さんが学校創設当初から大切にしてきたテーマです。学生時代に民俗学のフィールドワークにかかわっていたことがその原点です。
運動会や文化祭は地域と合同で実施します。老人会が定期的に行う草刈りには生徒たちも参加します。大雪が降ったあとには、お年寄りの家のまわりの雪かきを、生徒たちが買って出ます。学校の中だけでなく、地域社会に受け入れられながらすごすことが、不登校の子どもたちにとってとても有意義な体験になると北浦さんは言います。
子どもたちは学校の中で、学校文化に根を張って育ちます。学校は地域の中で、地域文化に根を張って育ちます。地域に深く広く根を張っている学校で学ぶ子どもたちは、とてつもなく大きな価値を知らず知らずのうちに吸収することができます。これは、これまでの取材経験で得た私の確信です。文化的土壌がないところに学校というハコを載せて、そこにいくら最新の教育コンテンツを詰め込んだとしても、そこから得られるものはたかがしれています。
大都会に住んでいると、ちょっと街を歩くだけで、1日何千人というひとと毎日のようにすれ違います。しかしそのときの何千人というひとたちはモブ(群衆)です。その1人ひとりから、生活や人生をいちいち感じたりはしません。
むしろそんなことを感じないように、心のシャッターを閉ざしながら、都会では歩くしかない。誰にも触れられなければ、傷つけられることがない代わりに、ぬくもりを感じることもない。そんな環境で、子どもたちの心が不感症になっていくのは当然のことなのかもしれません。
子どもだけではありません。大人だって、いや、大人こそ、自分の心をマヒさせて生きています。社会の閉塞感というけれど、閉じているのは心のほうです。大人たちがつくった安心・安全・便利・快適な閉ざされた世界で、子どもたちはいま、エアーポンプが止まってしまった水槽の金魚のように、あえいでいます。
不登校は、そんな子どもたちの声にならない声なのかもしれません。
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