「個人主義的な自由」を追求すると逃げていく幸福 時間を人と共有することの計り知れない効用
数年前に仕事でスウェーデンを訪れたとき、そういう社会的な休みをミクロレベルで実践する「フィーカ」という慣習を体験した。フィーカとは、職場のみんながいっせいに席を離れて、コーヒーと甘いお菓子を楽しむ毎日のイベントだ。
その30分ほどのあいだ、会社の上下関係はすっかり消え去り、人々は年齢も役職も関係なく、気のおけない友人のようにいろんな話をする。ヒエラルキーも官僚主義も意味を失い、コミュニケーションと社交が最優先になるのだ。ある管理職のスウェーデン人は、「フィーカこそ会社で起こっていることを知るのに最良の方法だ」と語った。
こういうコミュニケーションを可能にするためには、自分の時間にこだわらず、みんなの時間に参加するという姿勢が必要になる。なかには頑なにフィーカを拒んで自分のペースを守り抜きたい人もいるかもしれないが、眉をひそめられることは覚悟したほうがいい。
時間の中で共にいること
日々の感覚としても、人と生活リズムを合わせたほうが時間がリアルに感じられることはあると思う。ひとりで過ごすよりも時間が濃くなり、有意義に感じられるのだ。
ダンサーならご存知のように、ダンスに没頭するとき、他者とのシンクロは異次元への扉を開いてくれる。そこでは自他の境界がぼやけ、時間はもはや存在しない。僕は地元の合唱団に参加していたとき、そんな体験をした。ただのアマチュアの合唱だが、みんなの声が合わさると、一人では達成できないような完璧なクオリティが生まれる(2005年におこなわれたある研究では、合唱がもたらす心理的利点は「歌唱力が平凡であっても」減少しないと結論づけられている)。
歌やダンスでなくてもいい。たとえばフードコープ(生活協同組合)で月に一度のシフトに入り、ニンジンやブロッコリーの箱をベルトコンベアに乗せる作業をしているとき、他の労働者たちと深い絆で結ばれているように感じる。まるで修道院で共同生活をしているかのように、静かな一体感と目的意識にすっぽりと包まれるのだ。
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