サラリーマンが「名刺」に託しているもの 働かないオジサンは「芸名」を持とう

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組織内の役割から距離をおけば、自然と数多くの自己イメージを持っていることがわかる。会社の部長が、家庭に戻っても部長のようであるとはかぎらない。また、この道一筋ではなくて、あれもこれも的なところがあるほうが柔軟な対応が可能である。同時に、一生の間に異なる立場をいくつか経験することは、人生を深く味わうことにつながると思われる。

自分を変えることはなかなかできない。特に中高年になると、身にしみてそれを感じる。そうであるならば、自分を単一のアイデンティティに限定せずに、もうひとりの自分を持つという手もありそうだ。

オジサンも芸名を持ってみる

作家の遠藤周作氏は、ある対談で「遠藤周作のほかに孤狸庵なんて名前をつけていて、ずいぶんバランスをとっているんですよ。(中略)三島由紀夫っていう名前みたいにですね、自分を一つに限定しちゃって、しかもトップを走るというイメージで自分のスタイルを決めてしまった。これは苦しいだろうなと思ったですな」と語っていた。

実は、私の楠木新は芸名(ペンネーム)である。小さい頃から落語や漫才が好きだったので、芸名には興味があった。現実になったのは、会社の役職をいったん投げ出してからだ。

「楠木」は私が通っていた中学の名前から採った。中学時代は私が最も戻りたい時期だ。「新」は、育った地名である神戸新開地から採った。私が還るべき時期と場所を表している。

芸名で活動してみると、自分が本名の名前にけっこう縛られていたことに気づく。自分で勝手に、枠組みというか、制約を課していた。そう思って周囲を見ると、会社の仕事に自分を押し込めている人は少なくない。

最近は、楠木新宛ての賀状の枚数が、本名を上回った。芸名で活動する中で困ることはほとんどない。携帯電話に出るときに、「もしもし」から始めて、相手を確認するまでは、どちらを名乗ればいいか迷うくらいのものである。

芸名を持って感じるのは、複数の立場があれば安定するということだ。

会社で嫌なことがあっても、芸名を持つ世界に入れると思えば、すぐに切り替えることができる。また、いくら執筆に没頭できるといっても、区切りが必要だ。月曜日の朝に会社のパソコンを立ち上げるとほっとできる自分がいる。相互に気分転換になっている。

複数の立場を持つというと、ネット上で新たなハンドルネームを持ったり、サラリーマンが不動産の大家や数店舗のレストランのオーナーになったりという例を思い浮かべる人もあるようだ。私が思っているのは、それらとはちょっと違っている。

昔はよく本音と建前の使い分けなどと言われた。しかし、もはやそのような単純な切り替えでは済まなくなっている。それならば、その矛盾するルールをそのまま自分が抱えればいいじゃないかということだ。だから起業塾でやっているような、今から新たに起業するネタを探しましょうといったこととは異なるのである。

自分の中に矛盾する2つのルールを抱えて、何とかバランスを取ってみる。私の場合であれば、会社員として組織の中で働く立場と、自分の興味あることを本や連載で発信したいという立場は、確かに矛盾するときもある。しかし一方では、互いに相補う関係でもある。

対立するものを切り捨てた仕事スタイルは、ある意味、平板で変化に乏しく、不安定で脆弱なものになりがちである。そういうときはどちらか片方を切り捨てるのではなく、一生懸命にそれをつなげようとする営みが、自己を深め、結果として安定感のある仕事ぶりにつながる。

組織に適応する態度が一面的になるとき、それを補うようなものを、私たちは欲している。

楠木新氏の新刊『人事のプロが教える 働かないオジサンになる人、ならない人』、『知らないと危ない会社の裏ルール』好評発売中

楠木 新 人事コンサルタント

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くすのき あらた / Arata Kusunoki

1954年神戸市生まれ。1979年京都大学法学部卒業後、生命保険会社に入社。人事・労務関係を中心に経営企画、支社長等を経験。47歳のときにうつ状態になり休職と復職を繰り返したことを契機に、50歳から勤務と並行して「働く意味」をテーマに取材・執筆・講演に取り組む。2015年に定年退職した後も精力的に活動を続けている。2018年から4年間、神戸松蔭女子学院大学教授を務めた。現在、楠木ライフ&キャリア研究所代表。著書に、『人事部は見ている。』(日経プレミアシリーズ)、『定年後の居場所』(朝日新書)、『定年後』『定年準備』『転身力』(共に中公新書)など多数。

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