新発見!「信長からの手紙」に隠された秘密 細川コレクションの信長文書59通とは?
最後に信長以外の文書を二点見てみよう。
明智光秀は信長からの信頼が厚く、藤孝以上に大きな権限を与えられていた。例えば、「本能寺の変」の約1カ月前、信長から藤孝のもとに、毛利攻めの準備をするようにとの書状が届く。そこには、「くわしくは光秀から伝える」と書かれ、光秀の指揮のもとで藤孝が動くことが前提にされていた。
「本能寺の変」にどう対応したか
その明智光秀が天正10(1582)年6月2日、主君信長に反旗をひるがえし、本能寺の変を起こす。信長の死を知った藤孝・忠興父子は、すぐに剃髪して信長への弔意を表した。藤孝は隠居して出家し、忠興は光秀の娘である妻の玉を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市)に蟄居させた。
本能寺の変の7日後、光秀が藤孝に送った申し入れ書が「明智光秀覚条々」である。光秀は、姻戚関係にある藤孝・忠興父子は、当然、自分の陣営に入るものと思っていた。そして次の3カ条を提案した。
1条目は、「髻を切ったことに一時は立腹したが、思い直した。御を願う」。2条目、3条目は将来に向けた構想で、「父子が上洛して自分に味方するなら、丹後の他に摂津を、もし希望するならそれに加えて若狭の支配権をも分与する。自分の行為は忠興などを取り立てる目的でなされたもので、近く畿内・近国の情勢が安定したら、自分の子息や忠興の世代に畿内支配権を引き渡す所存である。決して別儀はない」と述べている。
藤孝と忠興は、主君信長を討った叛逆者である光秀にくみすることはなかった。そして本能寺の変の11日後、光秀は山崎の戦いで秀吉軍に破れ、歴史の舞台から姿を消す。
一方の羽柴秀吉は、6月27日の「清州会議」で政治的主導権を握る。そして本能寺の変から約1カ月後の7月11日、藤孝父子に起請文を送った。起請文とは、神仏に誓いを立てて約束に偽りがないことを記した文書。秀吉は、藤孝父子が光秀にくみしなかったことをほめ、入魂を誓った。花押の上に秀吉の血判が見える。ここから時代は秀吉の天下統一へと動いていく。
展示室には、戦国武将たちの書状がところ狭しと並ぶ。信長直筆の一通からは、心の動きまで伝わってくる。天下統一を目指した信長、秀吉のもとで、肥後細川家の祖となる細川藤孝がどんな役割を果たしたのか、手紙から浮き彫りにする展覧会といえるだろう。
参考文献:『重要文化財指定記念 細川コレクション 信長からの手紙』熊本県立美術館・永青文庫、平成26年10月10日
(季刊『永青文庫』2014年WINTERより転載)
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