新発見!「信長からの手紙」に隠された秘密

細川コレクションの信長文書59通とは?

左が熊本大学文学部附属永青文庫研究センター長の稲葉継陽(つぐはる)教授。右はナビゲーターの倉科カナさん

結局、藤孝は信長と進む道を選ぶ。同年7月10日、信長は藤孝宛の朱印状で彼の忠節を評価し、山城国のうち桂川から西の地域の支配権を保障した。

藤孝の居城、青龍寺城(現在の京都府長岡京市)のある地域であり、京都、大坂、丹波を結ぶ交通の要所でもあった。

熊本大学文学部附属永青文庫研究センター長の稲葉継陽氏は、「細川家の近世大名権力としての出発点を示す記念碑ともいえる文書」と解説する。その8日後、義昭は信長の軍に包囲され、京都から追放される。義昭に従った家臣たちは没落していった。

こうして信長配下の武将となった藤孝は、一向一揆との戦をはじめ、各地を転戦することになる。信長からは、戦功をたたえる文書、「感状」が届けられた。

15歳の細川家二代忠興には直筆の手紙

信長の手紙のほとんどは、「右筆」と呼ばれる秘書役が代筆している。現存する約800通のうち、唯一、信長が自ら筆を執ったと言えるのが、天正5(1577)年10月2日、藤孝の息子、細川家二代忠興(出家後は三斎、1563~1645年)に宛てた手紙だ。信長の側近、堀秀政が「信長公が自分で書かれた」という添状をつけていることから真筆とされ、信長の筆跡を判断するときの基準となっている。

その内容は、信長に反旗をひるがえした松永久秀を討ちに行った忠興に対して、「堀秀政から戦で手柄を立てたと報告を受けた。油断しないでこれからもがんばってほしい」と忠興の活躍を喜び、励ましている。当時の忠興は15歳。同年2月に初陣を果たしたばかりだった。信長にとっては自分の子供のような存在だったのかもしれない。

翌年、忠興は信長の側近となり、信長の命により、明智光秀の三女、玉(後のガラシャ)と結婚した。ちなみに、同じ討伐軍に参加した父の藤孝にも信長は感状を送っているが、こちらは右筆が書いている。

信長からの手紙は、戦に向かう藤孝を鼓舞するもの、軍道整備の指示、藤孝父子をねぎらって鯨の肉を分け与えることなど、内容は様々だが、信長の激しい気性が垣間見えるものも少なくない。

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