"阪急王国"と私鉄ビジネスの原点は「池田」だった ローンで住宅分譲、「電車通勤」スタイルの元祖
阪急電鉄の総帥・小林一三は没して半世紀以上を経た今でも、鉄道業界で伝説的な人物として語り継がれる。小林は阪急を単に移動手段を提供するだけの企業にとどめず、鉄道を主軸に住宅地開発・ターミナルデパート・プロ野球(阪急ブレーブス)・宝塚歌劇団など多角的に事業を展開・拡大した。
鉄道人としての生涯を追ってみると、小林は1907年に阪鶴(はんかく)鉄道(現・JR福知山線)監査役に就任したのを皮切りに、1936年に阪急会長と目蒲電鉄・東横電鉄の取締役を辞任するまで約30年間にわたって第一線で活躍した。
それ以降も、決して鉄道と無縁だったわけではない。江東楽天地(現・東京楽天地)や第一ホテル、西宮球場といった鉄道と親和性の高い事業を次々と立ち上げていく。戦後は公職追放によって空白期間が生じるものの、死没前年の1956年に新宿コマ・スタジアムと梅田コマ・スタジアムを設立して両社の社長に就任。最期まで事業に奔走した。
池田の住宅分譲が阪急発展の礎に
小林と阪急を語るとき、その多くは梅田・宝塚・西宮に焦点が当てられ、池田(大阪府池田市)がクローズアップされることは少ない。しかし、池田駅の存在を抜きにして小林を語ることはできない。池田の宅地買収と、その後の住宅販売がスムーズに進まなければ現在の阪急は存在しない。
小林が「住宅地御案内」とのPR冊子を配布し、池田駅前の分譲住宅を販売したのは、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道(現在の宝塚線と箕面線)が開業する半年前に遡る。同社は1910年に梅田駅―宝塚駅間と、石橋(現・石橋阪大前)駅から分岐して箕面公園(現・箕面)駅までの支線を開業した。
池田駅前に造成された住宅地は池田新市街地(後に池田室町)と名づけられた。同住宅地は82万5000平方メートルにも及び、呉服神社を中核に全207区画を造成。1区画は100坪で、そこに20坪の住宅が建てられた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら