"阪急王国"と私鉄ビジネスの原点は「池田」だった ローンで住宅分譲、「電車通勤」スタイルの元祖
小林は住宅の販売方法に工夫を凝らし、サラリーマン世帯が購入しやすいように月賦という販売方法を考案。池田駅の周辺は月賦によって住宅を購入したサラリーマンが居住し、大阪への通勤で電車に乗るという相乗効果を生み出す。沿線人口が増加したことで、駅周辺も開発が進んだ。
肝心の小林本人は、電車が開業する前年に大阪から池田へと転居。現在、同地には逸翁(いつおう)美術館や、1935年に自邸を増築した際に建てられた「雅俗山荘」(がぞくさんそう)をリニューアルした小林一三記念館、阪急文化財団の池田文庫がある。小林は没するまで雅俗山荘で過ごした。
池田に住み、大阪に通勤するというライフスタイルを浸透させるにあたり、小林は病院の誘致にも力を入れている。小林が池田へ転居したばかりの頃、周囲には病院がなかった。そのため、大阪市で回生病院を営んでいた菊池篤忠に病院の開院と自邸の建設を打診する。菊池は小林に応え、池田分院を開業した。
以降、池田駅周辺には博愛病院・増本病院を筆頭に個人経営の診療所、鍼灸医や助産院が増えていった。また、病院ではないが、1919年には塩野義三郎商店(現・塩野義製薬)創業者の塩野義三郎が邸宅を構え、社員寮も建設した。これらは池田のみならず周辺地域の医療を担っていく。
小林以外の「池田の功労者」たち
こうした成功譚の裏で、土地買収に関連した贈収賄事件が起こっている。小林は有罪にはならなかったが、事件の責任を取る形で専務取締役から平の取締役へと降格した。
小林が降格する原因になった贈収賄事件では、地元の酒造家で増本病院を開設した北村儀三郎や池田実業銀行頭取を務めた清瀧徳兵衛といった池田の有力者たちと対立する一幕もあった。
池田の発展史は小林や阪急に関連づけて語られることが多く、池田市が公刊する資料群でも小林に関する記述が多い。しかし、池田の発展史において北村や清瀧の活躍も無視できない。北村と清瀧は、1917年に池田土地という不動産会社を設立。池田土地は、池田駅南側に約3万坪で全58区画もの満寿美住宅経営地を造成した。そこには、池田新市街よりも高級な住宅が立ち並ぶ。
当初の満寿美住宅経営地は売れ行き順調とまでは言えなかったが、高級住宅地という評判が広まるにつれ、大阪市の富裕層が別荘として購入した。
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