"阪急王国"と私鉄ビジネスの原点は「池田」だった ローンで住宅分譲、「電車通勤」スタイルの元祖

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同市長選では、武田義三と中田正道の2氏が立候補。中田は池田育ちで政治経験もあった。一方、武田は商売人で衆院選への出馬経験はあったが、落選したため政治家を務めたことはない。こうした状況から、中田が圧勝するという下馬評だった。ところが、結果は武田が勝利を収める。その遠因が、小林だった。

市長選の期間中、元首相の幣原喜重郎が武田の応援演説のために池田を訪れた。小林が幣原の演説を聞くために武田の会場へ足を運んだことで、池田市民の間では武田がすごい人物なのではないかという風聞が流れた。

この風聞が選挙情勢を大きく変え、武田は市長に当選。その後も戦災復興・高度経済成長という時代の波に乗り当選を重ね、最終的に7期28年間にわたって池田市政を担った。

小林が池田市政に影響を及ぼしていたことを物語る出来事は、それだけではない。終戦直後の日本は全国的な食糧難で、池田市民も食糧を求めて電車で買い出しに出ていた。小林はこれを憂慮し、池田に公設市場の開設を働きかけた。その結果、阪急が池田駅北側に所有していた遊休地を市に貸与。ここに池田の商店主たちが店を構え、それが復興の足がかかりになっていく。

さらに、1949年に大蔵大臣の池田勇人が一県一行主義政策の修正を表明すると、小林は地方の繁栄には地方銀行が必要との考えから池田信用組合長の清瀧幸次郎に池田銀行(現・池田泉州銀行)の設立を持ちかけた。清瀧幸次郎は池田実業銀行で頭取を務めた実業家だが、なにより一時期は小林のライバル関係にあった徳兵衛の養子という続柄でもあった。そんな両者が池田発展のために力を結集したのだ。

いまも阪急の「本店」は池田に

高度経済成長の熱狂が鎮まる1970年代半ばから、池田駅周辺は再開発の機運が芽生える。池田市は駅前整備事業部という部署を新設し、再開発に取り組んでいく。再開発事業では高架化によって開かずの踏切を解消し、同時に駅南北を再整備することに主眼が置かれていた。これにより、池田駅前後の約1.25kmが高架線へと切り替えられた。

また、開業時の池田駅は現在地よりも西側にあり、街の中心軸がずれていたことも再開発によって補正された。

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再開発最大の焦点だったのは、池田駅北側に広がる阪急の池田車庫の扱いだった。移転は決定事項だったが、跡地整備の方針がまとまっていなかった。当初、川西能勢口駅止まりになっていた能勢電鉄を延伸する形で乗り入れすることも議論されたが、これは実現していない。
池田駅前の再開発は、1986年に完了。以降、池田駅は住宅都市として歩み、目立つようなトピックスは多くない。

しかし、阪急は本社をターミナルの梅田駅近くに置いているのに対して、登記上の本店は現在も池田に置かれている。そこからは、池田駅は小林が生み出した私鉄のビジネスモデルの原点であるという力強いメッセージを読み取ることができる。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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