鹿児島県・種子島に朝日が昇る中、海上自衛隊の輸送艦「くにさき」の船尾から水陸両用車の一群が次々と姿を現した。隊員を上陸させるために海岸へと向かう緑と茶の迷彩の両用車は波しぶきを上げ、それぞれの配置を分かりにくくするため煙幕を張った。
有刺鉄線や鉄製の柱などが設けられた浜辺に着くと、車両の後部扉から隊員らが飛び出し、陣形を整えた。ホーバークラフト2隻がその後に続く。実戦ではさらなる部隊や装備品を運ぶが、この日の訓練ではほとんど空っぽだった。仮想の占拠者からの海岸線奪還を巡る一連の動きを同僚の隊員らが高台から評価していた。
海上自衛隊掃海隊群の福田達也司令は訓練終了後、記者団に対し、「こうした訓練の重要度はわが国周辺の安全保障環境を見れば自明のところもあると考えている」とした上で、「どういう事態がいつどういう風に起こるというのは分からないので、われわれとしてはそういった事態が起こらないように抑止力を備える」と説明した。
福田司令は日本への脅威について具体的に言及しなかったが、それが意味するところは皆が分かっていた。種子島は東京よりも上海の方が近く、米国と中国の軍事衝突が起きれば、地理的に主な舞台になり得る。特に、ウクライナでの戦争が世界規模の紛争という新たな時代の幕開けとなるなら、可能性は低いものの、あり得なくはなくなっている米中の衝突シナリオが現実となった場合、ここが最前線となる可能性がある。
記者は昨年後半、南部の離島取材の一環として種子島を訪ねた。かつてないほど強まっている日米同盟に加え、中国への経済依存とタカ派に傾斜する中国の外交政策というジレンマに地元住民がどのように対処しているのかを探るためだ。
日本の多くの地域と同様、こうした島々も労働者や投資の獲得、新型コロナウイルス禍前は多数押し寄せた観光客など、中国との関係から大きな恩恵を受けてきた。地元住民はそれぞれのスタンスを巡り活発な議論を交わしている。理論的には軍事衝突に加わることが日本国憲法で禁じられているとし、将来的な戦争に日本を巻き込む恐れがあることには反対する意見がある一方、自国の主張を強める中国に警戒感を示す住民もいる。
種子島の西12キロメートルに位置する馬毛島。ここでは何十年もの間、ビーチリゾートや石油備蓄施設など開発計画が持ち上がっては立ち消えになっていたが、ここにきて米軍訓練移転と自衛隊基地の整備計画が進んでいる。菅義偉前首相とバイデン米大統領が昨年会談した際の共同声明も同計画に触れており、日米両国にとっていかに重要かが示されている。
馬毛島は1980年から無人島となっているが、種子島には約2万8000人が住んでいる。種子島の中心都市、西之表市に属する馬毛島の基地整備計画を巡っては市民の意見が真っ二つに割れている。計画に反対する八板俊輔市長は昨年の市長選で再選を果たしたが、容認姿勢を示す対立候補との票差は投票総数約1万票のうちわずか144票だった。
メディアの注目を集めた激しい選挙戦では、基地反対派が地元の自然環境を犠牲にし、平穏な生活が脅かされるとして賛成派を批判する一方、容認派は経済効果を指摘。日本の他の地域では基地受け入れで政府からさまざまな見返りを受ける自治体もあり、隊員やその家族が移り住んで地元経済が潤うとの期待もある。
八板市長は市役所でインタビューに応じ、馬毛島の基地化による影響が経済効果で完全に相殺されることはないだろうとの見方を示した。「馬毛島は単なる無人島ということではない。西之表市民、地域住民にとってはかけがえのない自然があり、文化、歴史の遺跡などもある大事な島」だと説明。自国の主張を強める中国の外交政策で緊張が高まっていることは認めつつ、新たな基地を設ける場所が馬毛島である必要はないと述べた。
種子島周辺は以前に比べて地政学的現実から目を背けにくくなっている事情もある。中国海軍とロシア海軍の艦艇は昨年10月、鹿児島県の大隅海峡を前触れもなく初めて同時に航行。また、地元の漁業関係者は中国国旗を掲げた船舶とのニアミスを報告している。海上保安庁による警告にもかかわらず、こうした船が進路変更し危険なほど近づくこともある。
海上自衛隊最大級の艦船で、全長248メートルの護衛艦「いずも」と「かが」はステルス戦闘機F35を搭載できるよう改修が進められており、戦後初めて空母化される方向。一方、日本の政界では台湾情勢に関してより踏み込んだ発言が出てきている。安倍晋三元首相は昨年12月に行った台湾向けのオンライン講演で、台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもあると述べた。
ただ、選挙で鍵を握る年齢が高めの世代を中心に平和主義への支持も根強い。記者の種子島滞在中、反対派よる基地計画への抗議集会が開かれた。地元の活動家や政治家が順々にマイクを握り批判を展開。その後、91歳の下村タミ子さんがゆっくりと椅子から立ち上がった。
下村さんは「私は戦争の体験者」だと説明した上で、「戦争がだんだん激しくなり種子島へも空襲が何回もあるようになった。そして学校は全て閉鎖され、学童の疎開が始まり、それから学徒の動員も何回も繰り返されるようになった」と振り返った。
また、下村さんは「兄も3人いたが、1人はとうとう遺骨が返ってこず、いまだに返ってきていない。2人の兄はソ連に抑留されて数年たってから帰ってきた。母の嘆きの姿が今も忘れることができない」と回想。「戦争ほど悲しみを生み、愚かなものはないと思っている」と叫びに近い声で訴え、聴衆からは拍手が上がった。
原題:The Front Line of the U.S.-China Cold War Slices Through Japan(抜粋)
More stories like this are available on bloomberg.com
著者:野原良明
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら