しかし、競馬は、走るのに優れた馬を作るという、馬そのものの特性の究極を目指すものであり、これを営々と続ける人間とは、なんとも不思議なものではないか。
競走馬の生産とは、最高の贅沢であり、貴族の道楽なのである。しかし、道楽とは、快楽に溺れていては三流である。厳しい規律をもった道楽こそが正しい道楽であり、その意味で競馬とは、産業化された、とてつもない規律の効いた、生物という自然の摂理に支配されている世界における厳しい現実、規律の下で行われる人類史上、いや「地球史上、最大の道楽」なのだ。
したがって、消費者主導の競馬などは邪道であり、このような贅沢を持続可能にするための手段にすぎないのである。
新古典派の経済学は「単なる道具の整備」
一方、「消費者が経済の主役、世界の主役」と奉ったのが、実は経済学における新古典派経済学誕生の本質である。一般には、限界革命と呼ばれているが、ワルラスの限界革命がつくった新古典派の経済学は、実は、これは単なる道具の整備にすぎない。
限界革命はあくまで様式にすぎず、本質は消費者の効用こそがすべての価値である、としたメンガーの効用主義こそが、アダム・スミス、デビッド・リカード、カール・マルクスの古典派経済学を途絶えさせた、真の革命なのである。革命を唱えたマルクスが、革命とは認識されていない効用主義に殺されたのは大変な皮肉である。現在の経済がバブルになり、迷走しているのは、この効用革命のせいなのである。
しかし、これは改めて議論したいが、ひとことでいえば、財の価値は、その財そのものの中にあり、価値を決める本質が財の側にあるという古典派の考え方から、財の価値は、消費者が得る効用で決まる、という考え方に変わった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら