NYで開眼!栃木で「竹の農場」盛り上げる男の発想 IBMの中庭を見たことが家業の再興に繋がった

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江戸幕府の新田開発のために移住してきた先祖たち

若山農場を率いているのは若山太郎さん。若山家は寛文10(1670)年にこの地に移住してきて以来、350年にわたって家業を守っている。現在の事業の柱は3つ。タケノコ、栗などを生産する農産物部門、タケの苗木を生産する植木部門、竹林を見せるロケーション部門だ。

若山太郎さん(写真:筆者撮影)

「徳川幕府の新田開発のために、渡良瀬川流域で水害に困っていた先祖がこの地に移住したのが始まりです。未開の原野を開墾したものの、用水完成が100年遅れて水田にできず、畑作地として色々な作物を栽培していたようです。

いまも残るクリとタケを植えたのが祖父の善三でした。宇都宮大学の前身で近代農法を学んだ祖父は、戦後クリ栽培で成功し、全国に栗の栽培技術を広めたことで名を成した人物です。物資の乏しい時代でしたから、竹の需要も大きく、東京に出荷する春のタケノコと秋の栗、冬場の竹材と、商売は順調でした」

祖父までの先祖たちの活躍を紹介してくれた若山さんだったが、ここからは一転して苦難の歴史が語られた。

「全国の栗産地で祖父の名前を知らない人はいなかったはずです。祖父たちはさらに韓国や中国にまでクリを普及してしまいました。その結果、韓国と中国から輸入される安い栗によって価格が暴落し、国内産地は大打撃を受けました。もちろんうちもです」

若山さんの父は儲からないクリを切り倒し、タケの栽培面積を増やしていく。だが、プラスチック製品の台頭によって竹材の需要も激減し、若山農場の経営は一段と悪化していった。頼みの綱は食用のタケノコのみ。お得意さんは東京の高級料亭だった。彼らが求めたのは見た目のよい小ぶりなサイズ。これらは高く売れたものの、一般的なサイズよりも味が劣る欠点があった。

「ある年、父は120年に1度といわれるモウソウチクの開花に遭遇しました。どうもその時にタケの品種改良を思いついたようです。おいしい小ぶりのタケノコが採れる品種を作ればよいと」

タネから育てたタケの性質がわかるまでには10年は必要だ。お金は出ていくばかり。それでも若山さんの父は大量のタネを播き、タケの改良に没頭し、ついに目的の品種の育成に成功する。

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