テレビに踊らされる人々が生まれた歴史的な必然 20世紀を代表するメディアの誕生に隠された思惑
一方、技術大国である日本においても、1924年、のちに「テレビの父」と呼ばれることになる高柳健次郎によって研究が始まりました。彼は撮像にニプコーの円板を用いた機械式走査、受像にはブラウン管を用いる方式を取り、1926年に初めて字の伝送に成功。その初めて送られた文字はカタカナの「イ」の文字だったのです。
少々簡略化した部分もありますが、このようにさまざまな人物の研究によって誕生したテレビ。1930年代に入り、各国では映像受信機と放送の実用化を競うように開発が進みました。ちょうどこの時期は、第二次世界大戦を間近に控えた不穏な時期。おそらくどの国でも、「テレビを国民の意識を高める道具にしよう」という思惑があったのでしょう。
ナチス×テレビ 権力が実現したメディアの急成長
こうした中大きくリードを取ったのが、ナチス政権下のドイツでした。
ニプコーもブラウンもドイツ人でしたが、ドイツにはナチス政権以前からテレビ開発の高い技術力があったともいえます。ナチスが1935年に世界に先駆けて定時放送を開始したテレビ局も「パウル・ニプコーテレビ局」という名で、ニプコーをテレビジョン協議会の名誉会長にも据えたのです。
ナチスは1933年に政権を獲得すると、ドイツ全土のネットワークを国有化し、地方局の独自性を廃して中央集権的管理下に置きました。この頃はまだラジオ放送だけでしたが、その機能を活用して自分たちを宣伝し、効果を上げていきます。
ラジオがまだ非常に高価で、民衆の手には届かないものだった時期に、「国民ラジオVE301W」という安価なラジオを開発し、それを国民に普及させました。この名前の「301」は、ヒトラーが政権を取った1月30日に由来しています。
低価格ゆえに単純な構造で、海外の放送を聴くことはできませんでしたが、元々国内の放送しか聴くことができない決まりがあったため、そこは問題ありませんでした。
さらにこれまで受信料が必要だったものを無料化したことで、低価格で手頃なラジオと相まってドイツのラジオ受信者数は瞬く間に増加。
こうしたところにナチスはラジオを通じて、自らの政治を宣伝していったのです。
そうした状況下で開発されたテレビは、音声だけのラジオより、映像を映すことができたため、より効果的な啓蒙や宣伝をすることができる代物でした。そんな絶大な効果があるものをヒトラーが見逃すはずもありません。
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